秋刀魚の煙

団地のベランダで秋刀魚は焼けない。

煙と匂いが隣室へ流れるため、珠生は台所の魚焼きグリルを使う。それでも換気扇だけでは追いつかず、部屋中が秋刀魚になる。

今年、向かいに越してきた欧介が、廊下で「いい匂いですね」と声をかけた。

「迷惑じゃないですか」

「実家を思い出します」

翌週、欧介が大根を一本持ってきた。親戚の畑から届いたものだという。

珠生は秋刀魚を二尾買い、一緒に食べることにした。

大根をおろす音、グリルで脂が弾ける音。煙探知器が鳴らないよう窓を開けると、冷たい風が入った。

焼けた皮へ箸を入れ、大根おろしと醤油を載せる。

欧介は頭側から、珠生は尾側から食べた。

「家では七輪でした」

「うちはフライパン」

同じ魚でも、思い出す煙は違った。

食後、二人で窓を全開にした。カーテンや服に匂いがつき、消臭剤を使っても消えない。

翌朝、廊下ですれ違うと、欧介の上着からも秋刀魚の香りがした。

「まだいますね」

「秋くらい、いてもいいでしょう」

その年、二人はあと二度秋刀魚を焼いた。三度目には匂いを気にせず、窓を少しだけ開けた。

冬物のコートを出す頃、袖口から微かに煙が香った。短い秋が布の奥へ一尾分だけ残っていた。

三度目の秋刀魚を焼いた夜、火災報知器が一度だけ鳴った。二人で窓を開け、団扇を振り、笑いながら止める。翌朝、隣室から苦情ではなく、すだちが二個届いた。匂いのお裾分けへの返事らしい。四度目は三人で食べた。大根おろし、すだち、熱い白飯。ベランダへ煙は出さなくても、団地の廊下には秋の香りが少しずつ広がる。冬の洗濯でカーテンを外すと、布の折り目から最後の煙が細くほどけた。

すだちの種を珠生が小鉢へ置くと、欧介は育てようと言った。芽が出る保証はない。それでも窓辺の土へ埋めると、部屋に魚ではなく柑橘の青い匂いが加わった。

芽はまだ出なかったが、二人は土が乾くたび水をやった。窓辺には煙の代わりに、濡れた土とすだちの皮の香りがあった。