秘伝を継がない夜

二十三時五十五分、芳賀井修吾は老舗の厨房で鉄の柄杓を置いた。

父の前には店の権利書と朱肉。炭の匂いが染みた壁には、修吾が幼い頃につけた背丈の傷が残る。母の葬儀の日にも、父は暖簾を下ろさなかった店だった。修吾は十五歳から毎朝寸胴を磨き、この厨房以外で働いたことがない。零時までに継承印をもらえば、百年続いた屋号は修吾のものになる。

「秘伝のタレを捨てた」

父は朱肉の蓋を閉じた。

「なら、おまえに継ぐものはない」

零時。寸胴の湯気が逆流し、修吾は再び二十三時五十五分へ戻った。柄杓から同じ一滴が落ちる。

古いタレには表示されていない添加物が使われていた。修吾は保健所の検査前に廃棄した。だが父の印がなければ、店は親族へ売られる。ループの終了条件は、継承印を得ることだった。

二周目、検査結果を見せた。

「秘伝のタレを捨てた」

「味より役所を選んだか」

三周目、修吾は新しいタレを煮た。焦がし葱、昆布、焼いた骨。父は一口舐めたが、印を押さない。

「これはうまい。だが、うちの味じゃない」

六周目、修吾は客の署名を並べた。八周目には売上予測と改装案を出した。父の言葉は変わらない。

「おまえに継ぐものはない」

十周目、柄杓を握ったまま修吾は気づいた。自分が欲しいのは店ではなく、父から後継者と呼ばれることだった。古いタレを捨てながら、古い承認だけは欲しがっていた。

十一周目。

「秘伝のタレを捨てた」

「なら――」

「継がない」

修吾は権利書を二つに裂き、店の鍵を朱肉の横へ置いた。借入金の連帯保証から外れる代わりに、屋号も設備も相続しない書類を送信する。

父の眉が動いた。

「逃げるのか」

「自分の味に、あなたの印を借りない」

零時。湯気は天井へ上り続け、時計は零時一分になった。

翌朝、修吾は市場の片隅で中古の寸胴を買った。百年もののタレも、屋号もない。鉄の柄杓だけは持ってきたが、柄に刻まれた家紋をヤスリで削った。

最初の一滴は、どこへも戻らなかった。