空の浴槽の一晩
母が営んでいた銭湯を畳むことになり、姉妹は最後の掃除をした。
姉は建物を売ると言い、妹は残したいと言った。
母が亡くなってから、その話をするたびに喧嘩になった。
家族風呂の栓を抜き、扉を閉めると、外の五分が、浴室では一晩になった。
外では夕方なのに、曇りガラスの向こうはすぐ暗くなった。
姉妹は空の浴槽へ腰かけた。
水も湯気もない銭湯は、声がよく響いた。
最初の一晩は、修繕費と固定資産税の話をした。
二晩目は、妹が母の介護を姉に任せきりにしたことを責められた。
三晩目は、姉が勝手に売却の相談を進めたことを妹が怒った。
外ではまだ十五分しかたっていない。
四晩目、二人とも話すことに疲れた。
洗い場の鏡には、水垢の下から小さな傷がいくつも見えた。
子どもの頃、背比べの印として母が付けた線だった。
姉の方がいつも高く、妹は爪先立ちをした。
母は「競争じゃないよ」と笑っていた。
五晩目、姉が言った。
「私、本当は売りたくない」
妹は驚いた。
「じゃあ、どうして」
「残したら、毎日ここへ来なくちゃいけない気がするから」
母のいない番台、母のいない脱衣所。
姉は守りたいのではなく、離れられなくなるのが怖かった。
妹も言った。
「私、本当は継ぎたくない」
「残したいって言ったでしょう」
「なくなったら、帰る理由がなくなるから」
二人は初めて、反対の言葉の下に同じ寂しさがあることを知った。
六晩目、浴室の壁を洗った。
七晩目、背比べの線だけを残し、他の傷を磨いた。
八晩目、番台の看板を外す方法を相談した。
扉を開けると、外では四十分が過ぎていた。
不動産屋からの電話が三件入り、近所の常連が入口で待っていた。
姉妹は、建物を売ることを決めた。
ただし看板と家族風呂の鏡は外して、新しい家へ持っていく。
半年後、跡地には小さな集合住宅が建った。
入口の壁に、銭湯の看板が飾られている。
姉妹は一階の一室を借り、月に一度、近所の人が集まる食事会を開いた。
帰る理由は、建物そのものではなかった。
誰かが「また来月」と言うたび、空になった浴槽のような場所にも、新しい時間が少しずつたまっていった。