第十二ラウンドの棄権

世界戦が終わるたび、野々宮丈一郎のロッカーに一文が残った。

〈第五ラウンド、左ボディ。〉

最初の試合では判定負け。赤いマウスピースを外した瞬間、視界が白くなり、また入場前へ戻った。未来の自分から過去のセコンドへ送れるのは一文だけ。勝利して世界王座を取れば周回は終わる、と端末に表示されていた。

二周目、第五ラウンドの左ボディで相手の動きが止まった。しかし九回に逆転KO。三周目は続けて右上段、六周目は相手の癖まで文へ詰めた。

〈第五、左腹二発、右を見せ、八秒後に顎。〉

戻るたび、赤いマウスピースには同じ歯型がついている。丈一郎の網膜だけが、周回の衝撃を覚え、黒い点を増やした。

九周目、十二ラウンド残り十秒。丈一郎の右が顎を捉え、相手は立たなかった。王座獲得。観客の叫びが天井を揺らす。

成功条件を満たした端末が、勝利の起点となる一文を求めた。

そのとき検査員が、丈一郎の予備グローブから薄い金属板を見つけた。プロモーターが手配した細工だった。周回のどこかでセコンドはそれを知り、未来の指示と組み合わせて勝てる瞬間だけ使った。丈一郎は装着時の硬さに気づきながら、王座のため黙っていた。

担架で運ばれる相手の足が見えた。助けたいわけではない。自分が何をしたかを、勝利という言葉で隠したくなかった。

丈一郎は赤いマウスピースを握り、確定文を消した。

〈第一ラウンドで膝をつき、グローブの細工を審判へ申告しろ。〉

入場前へ戻る。

ゴングの一分後、丈一郎は自ら片膝をついた。観客は罵声を浴びせた。審判へグローブを渡し、細工を知っていたことも話した。試合は無効。丈一郎は一年の出場停止ではなく、永久追放になった。違約金でマンションもジムの持分も失い、長年ついてきたトレーナーからも絶縁された。王座戦のポスターだけが街角に数日残り、彼の顔へ黒いテープが貼られた。

数週間後、赤いマウスピースをゴミ箱へ落とすと、乾いた音がした。

世界王者にならなかった男の視界には、黒い点が残っている。それでも次の朝は、入場曲から始まらなかった。