終電前のゆりかご

椿谷結希が駅のコインロッカーから泣き声を聞いたのは、午後十一時五十三分だった。駅の保護AIが遺棄事案を「未解決」と判定し、九分間を保存していた。

扉を開けると、毛布に包まれた赤ん坊がいた。結希は駅員を呼び、救急へ連絡した。午前零時二分、救急車の赤灯が見えた瞬間、時計が十一時五十三分へ戻った。

赤ん坊はまたロッカーの中にいた。

二回目は先に救急を呼んだ。三回目は交番へ走った。十回目にはミルクの温度を覚え、百回目には泣き方だけで空腹か寒さか分かるようになった。それでも零時二分に世界は戻る。

結希は子どもが苦手だった。妹の出産祝いにも行かず、「自分の人生まで巻き込まないで」と言って絶縁状態になっていた。

ループのたび、ホームの端には灰色のコートの女がいた。零時前の終電に乗り、顔を隠して消える。結希は何百回も追いかけ、警察へ突き出そうとした。女は逃げ、赤ん坊は泣き、時間は戻った。

ある夜、結希は女の手首に見覚えのある火傷跡を見た。

「茉由?」

妹は立ち止まった。

夫は出産直後に失踪し、家賃も払えず、育児支援AIからは「養育適性不足」と判定された。誰にも頼れず、子どもだけでも保護されるよう置いていくつもりだった。

結希は妹を責めた。どうして連絡しなかった、母親なら逃げるな、と。妹は黙って終電に乗った。零時二分、また最初へ戻った。

次の百回、結希は説得の言葉を変えた。正論、脅し、謝罪、金の約束。どれも妹をロッカーから遠ざけるだけだった。

千一回目、結希は赤ん坊を抱いたまま、妹の隣に座った。

「置いていってもいい」

妹が顔を上げた。

「でも、あなたまで置いていかないで。私の家に来て。母親を続けるかは、明日決めればいい」

「明日なんて来ないかもしれない」

「じゃあ、来るまで一緒にいる」

終電が発車した。二人は乗らなかった。零時二分を過ぎ、赤ん坊が初めて眠った。

その後、結希は妹親子と三人で暮らした。養育は美談にならず、喧嘩も夜泣きも続いた。妹が家を出た時期もあった。

それでも結希は知っていた。家族とは、正しく引き取ることではない。同じ夜から逃げられない人の隣に、朝まで座ることなのだ。