給水笛を鳴らせ

 真夏の体育館。顧問が笛をくわえ、床に手をついた選手たちへ叫んだ。

「あと一本! 水はその後だ!」

 マネージャーの紫乃は、給水ボトルを握り締めた。

 前の人生でも同じ号令が響いた。主将だった姉の蘭佳は立ち上がり、最後のダッシュへ向かった。折り返し線の手前で倒れ、そのまま帰らなかった。

 紫乃は自分が止めなかったことを悔やみ、やがて指導者になった。暑熱指数、救命手順、練習設計。古い根性論を結果で覆し、全国大会へ何校も導いた。それでも、どれほど多くの選手を救っても、姉の死亡時刻だけは変えられなかった。

 それが今、十六歳の体へ戻っている。

「あと一本! 水はその後だ!」

 紫乃は首から下げた給水笛を吹いた。

 鋭い音が、顧問の笛を切り裂く。ボールの弾む音も靴底の摩擦音も止まり、全員が小柄なマネージャーを見た。

「練習中止です」

「マネージャーが指図するな」

「指数は中止基準を超えています。あと一本より、一人の命です」

 前なら縮こまった怒声を、紫乃は真正面から受けた。壁の測定器は赤く点滅している。数値を写真に撮り、校内の保健室と教頭へ同時送信する。未来の指導者として、感情ではなく記録で逃げ道を塞いだ。

 彼女は非常口を開け、選手を日陰へ座らせ、蘭佳の首筋を冷やした。最初は戸惑った部員たちも、やがて自分から氷と送風機を運ぶ。命令に従う列が、命を守る輪へ変わった。

 姉は「平気」と笑ったが、紫乃はその言葉を採用しなかった。前の人生と同じ強がりでも、今度の自分は違う。呼びかけへの反応が遅い。救護員へ連絡すると、すぐに処置が始まった。

 午後五時十八分。

 前の人生で姉の心拍が止まった時刻。体育館の得点板が自動で切り替わった。

《本日の練習は中止 体調不良者一名・回復》

 ベンチの上で目を開けた蘭佳が、かすれた声で言う。

「紫乃。帰り、アイスおごって」

 前の人生では顧問が読んだ死亡報告の代わりに、姉が初めて明日の体重を気にしない注文をした。

 紫乃はもう一度、今度は給水再開の合図として笛を鳴らした。