美術室の白い余白
卒業制作の壁画は、予算の都合で中止になった。
下絵まで完成していたのに、校長から「今年は白いままで」と言われた。
だから私たちは、夜だけ描くことにした。
消せる絵の具を使い、朝までに洗い落とす。大人には言えない、十二時間限定の壁画。
美術室の窓から入り、廊下の突き当たりの白い壁へ向かった。
描くのは、三年間の学校ではない。
まだ起きていない未来だった。
進学した人、就職した人、町を出た人、残る人。私たちのクラス全員を、好きな場所へ立たせた。
私は海辺で絵を描く自分。
親友は小さな店を開いている自分。
「本当にこうなるかな」
「ならなくても、今は描ける」
夜が深くなるほど、壁は色で埋まった。廊下の窓には、筆を動かす私たちの姿と、壁の中を歩く未来の姿が重なった。今の制服だけが、どちらの世界にも属していないように見えた。
途中、親友の手が止まった。
彼女は家業を継ぐことが決まっている。本当は調理の学校へ行きたいが、言い出せない。
壁の中の彼女は、知らない町の厨房で笑っていた。
「これ、見たら親に怒られる」
「朝には消す」
「消えたら、なかったことになる?」
私は筆を置いた。
「写真は残す」
大人に見せない写真。今の自分が望んだ証拠。
朝五時、壁画は完成した。
廊下の端から見ると、白い校舎の向こうへ別の世界が開いているようだった。
二人で床へ座り、夜明けまで眺めた。
六時、雑巾と水で消し始めた。
色は思ったより簡単に落ちた。未来の私たちが、赤、青、黄の水になって床を流れる。
最後に親友の厨房だけが残った。
彼女は自分で消した。
「写真、送って」
「家族には?」
「まだ秘密」
春、親友は家業を手伝いながら、夜間の調理学校へ通うことを家族へ話した。すぐには賛成されなかったが、壁画の写真を見せたという。
卒業後、あの壁は白いままだ。
誰も、そこに一晩だけ未来が描かれていたことを知らない。
私たちは時々、写真を見て、今の自分が壁のどこまで近づいたか確かめる。