老犬がくしゃみをするたび

老犬を病院へ連れていく朝、家族は誰も玄関まで来なかった。

父は新聞を読み、姉は化粧をし、母は台所で鍋を洗っていた。十五年も一緒にいたのに、最後になるかもしれない朝に、皆ずいぶん薄情だと思った。

老犬は靴箱の前で小さなくしゃみをした。

そのたびに家の中の時間が止まり、次に鼻を鳴らすまで、私だけが動けた。

最初の静止で、父の新聞が逆さまだと分かった。

眼鏡の奥には涙がたまり、落ちる直前で止まっている。テーブルの下では、片手が老犬の古い首輪を握っていた。

二度目のくしゃみで、姉の部屋をのぞいた。

鏡の前に化粧品が散らばり、スマートフォンには「午前休を取ります」と打ちかけた画面。目の赤みを隠すため、何度も塗り直していたらしい。

机には、老犬の抜けた乳歯が、小さな瓶に入れて残されていた。

三度目、台所へ行った。

母が洗っていたのは鍋ではなく、老犬の水皿だった。何度拭いても同じ場所をこすっている。冷蔵庫には、食欲が戻ったら食べさせるつもりの鶏肉が、細かく切ってあった。

その横に、病院から帰れなかった場合のための白い布も畳まれていた。

私は皆が平気なのだと思っていた。

本当は、誰か一人でも泣けば全員が崩れるから、それぞれ別の物を見ていただけだった。

老犬が鼻を鳴らすと、時間が戻った。

父は新聞をめくり損ね、姉は眉を太く描きすぎ、母は水皿を落とした。

私は玄関で言った。

「一人じゃ重いから、誰か来て」

老犬はもう抱けば軽い。それでも三人とも立ち上がった。

父が毛布を持ち、姉が車の鍵を取り、母は鶏肉の袋を鞄へ入れた。

病院の駐車場で、老犬はもう一度くしゃみをした。

けれど時間は止まらなかった。

代わりに父が笑い、姉が泣き、母が「まだ帰る気ね」と鼻をすすった。

診察の結果、老犬はその日、家へ帰れた。

残された時間が何日かは分からない。

夕方、四人で床に座り、その真ん中で老犬が眠った。誰も平気なふりをしなかった。

家の時計はいつも通り進んでいた。

けれど私たちは、その遅い寝息の一つ一つを、前より長く聞けるようになっていた。