聖女と呼ばない公爵

フリージアは「聖女様」と呼ばれるのが嫌いだった。

幼いころから治癒魔法を使わされ、熱を出しても祭壇へ運ばれた。名を呼ばれることはなく、いつも聖女様、救い手、奇跡の器。

アラリック公爵だけは、最初から彼女をフリージアと呼んだ。

大聖堂で彼女が「その名のほうが好きです」と一度言っただけで、公爵領の文書から「聖女」の敬称が消えた。反対した司祭には、寄付金の帳簿を突きつけて黙らせたという。

彼は誰にでも冷たい。重傷の兵を救うためであっても、規則を破った将校は処罰する。泣く子どもにさえ愛想を見せない。

なのにフリージアが治癒のあと喉を痛めると知ってから、彼の卓上にはいつも冷ました水が置かれている。今も、王宮の奇跡披露会で彼女の杯だけ湯気がない。

「聖女様、前へ」

大司教が呼んだ。

フリージアの指が杯の縁で止まる。

アラリックが立ち上がった。

「その呼び方をやめろ」

「これは尊称ですぞ」

「本人が嫌っている」

「力ある者には役目がございます。今夜は王弟殿下の古傷を癒やしていただく」

大司教が祭壇を示す。断れば信仰への反逆。フリージアは立とうとしたが、アラリックが水差しを彼女の側へ寄せた。触れも命じもしない。ただ、選ぶ時間を作るように。

「治したいか」

小さな問いだった。

「私が断れば、あなたの立場が悪くなります」

「私の立場は私が守る」

王弟が眉をひそめる。

「公爵、余の痛みより娘の気分を優先するのか」

「彼女の魔法は、彼女のものです」

「婚約すれば公爵家の力となる」

アラリックの目が凍った。

「婚約は所有権の移転ではない」

大司教が声を荒げる。

「では、聖女が拒めば奇跡を民へ与えぬと?」

アラリックはフリージアの前に二枚の札を置いた。治療を行う札と、帰宅する札。どちらにも公爵家の印が押されている。

「選べ。婚約の破棄まで望むなら、三枚目を作る」

満座が息を呑む中、フリージアは帰宅の札を取った。

アラリックは杯を彼女へ渡し、大司教へ告げた。

「聞こえただろう。フリージアは今夜、誰も治さない。彼女を聖女と呼んで追う者は、私が止める」