衣替え延期願
六月一日の朝、黒板に「衣替え延期願」と書かれていた。
提出者は、教室の一番後ろで長袖のブレザーを着ている男子だった。
理由の欄には、
『白いシャツは汗が目立つ。世界がまだ夏服に対応していない』
とある。
みんなは笑った。本人も笑っていた。
けれど一時間目が終わっても、ブレザーを脱がなかった。額に汗が浮き、襟元が赤くなっている。
私は保健委員として声をかけた。
「熱中症になるよ」
「それより恥ずかしいほうが無理」
冗談ではなかった。
去年、背中の汗をからかわれてから、夏服の日が嫌になったらしい。家では制汗剤も試したが、緊張すると余計に汗が出る。
私は黒板の延期願へ署名した。
隣の女子も署名した。
「私、白いシャツだと下着が透けるの嫌」
前の席の男子も。
「腕の傷、見られたくない」
冗談で始まった紙に、理由が増えていった。冷房が苦手。体型が気になる。日焼けを見られたくない。
先生は紙を読み、しばらく黙った。
「制服を変える日は決まっていても、困り方は同じじゃないな」
その日の午後、薄手のカーディガンや指定の長袖シャツを夏服として認めると説明があった。保健室には汗取り用の替えシャツも置かれた。
後ろの男子は、最後までブレザーを脱がなかった。
翌日、長袖の白いシャツで来た。
「延期、認められた?」
私が聞くと、黒板の紙を指した。
「一日だけ」
署名の横に、先生が赤字で書いていた。
『変更ではなく、選択肢を増やすこと』
夏の終わり、男子は一度だけ半袖を着た。
その日は体育祭の準備で、どうせ全員汗だくだった。
誰も背中をからかわなかった。
「世界、対応した?」
私が聞くと、本人は首を振った。
「まだ。でも、教室はちょっとした」
衣替え延期願は、学期末まで黒板の隅に残った。
季節を止めることはできなかったが、同じ速度で着替えなくてもいいことを、私たちはそこで覚えた。
翌年の六月、同じ紙を新入生が見つけた。男子はもう笑われる側ではなく、選べる長袖の場所を教える側になっていた。