被害者が知らない傷
磯谷千景刑事は、被害者の薬師寺香澄に二枚の写真を見せた。
一枚は逮捕直後の水科亮。もう一枚は、その二日後の留置場で撮られたものだ。二枚目だけ、左眉に三日月形の傷がある。
十五年前、薬師寺は「犯人の左眉に傷があった」と証言し、水科を面通しで指した。その証言で有罪が決まった。
「最初に傷を思い出したのは、いつですか」
薬師寺は長い間、二枚を見比べた。
「警察の方に聞かれた時です。『左眉に傷があっただろう』って」
「誰でしたか」
窓の外で車のドアが閉まった。当時の担当刑事で、現在は刑事部参事官の宮古路卓哉が来たのだ。
薬師寺は喉を押さえた。
「名前は言えません。あの人たちは犯人を捕まえてくれた。私はそう信じて生きてきたんです」
磯谷は留置診療簿を開いた。《取調べ中に机へ額を打ちつけ裂傷》。担当者欄には宮古路の署名がある。水科の傷は、薬師寺が犯人を見た夜には存在しなかった。事件翌日に薬師寺が描いた犯人の似顔絵にも、眉の傷はない。その原画は捜査記録ではなく、被害者支援室の相談箱から見つかった。正式資料には、傷を足した描き直しだけが綴じられている。薬師寺は最初の聴取で《暗くて顔は分からない》とも答えていた。その頁だけ通し番号から抜け、代わりに宮古路の要約が挟まれていた。
扉が叩かれた。
「聴取を終えろ。被害者を再び傷つけるな」
宮古路の声だった。
薬師寺は涙を拭いた。
「私が間違えたら、あの人は十五年も……」
磯谷は録音停止ボタンへ指を置いた。ここで止めれば、《記憶不鮮明》とだけ報告できる。被害者を守ったことにも、組織を守ったことにもなる。
赤い灯が消えた。
薬師寺が俯いたまま言った。
「でも、本当のことを言わない方が、また誰かを傷つけますよね」
磯谷は新しい記録番号を発行し、録音を再開した。扉を叩く音まで明瞭に入る。
「薬師寺さん。傷について、最初から話してください」
彼女は宮古路の名を口にした。磯谷は録音データをその場で再審係へ送った。