裾の最後の一針
透子の二十九歳の誕生日に、梨沙は緑色のワンピースを持ってきた。
来月の結婚式で着るため、古着屋で買ったものだという。裾が長く、靴を履いても床を擦る。直し屋へ持っていけば間に合うのに、梨沙は「透子のほうが上手だから」と紙袋ごと置いた。
透子が式に出られないことを、二人とも知っている。来月という言葉は、最近、薄い氷のようになった。踏めば割れるので、用事の形にして渡し合う。
透子はベッドの上へ裁縫道具を広げた。梨沙にワンピースを着せ、裾を二センチ折る。待ち針を打つため膝をつくと息が苦しくなり、途中から椅子に座って作業した。
「曲がってない?」
梨沙が鏡を見ながら尋ねる。
「あなたが動くから」
「緊張すると足が動く」
「本番も?」
「本番はもっと」
透子は待ち針を一本増やした。笑うと咳が出るので、口元だけで笑った。
梨沙が脱いだワンピースを裏返し、折り目にアイロンを当てる。蒸気が上がり、緑の布が濃く見えた。針には同じ色の糸を通す。表へ響かないよう、布をほんの一筋だけすくって縫う。
糸は長く取りすぎない。途中でもつれれば、ほどく時間のほうがかかる。透子は肘から指先までの長さに切り、なくなるたび新しく通した。梨沙はそのたび針穴の後ろへ白い紙を置き、見えやすくした。
一針ごとに、裾が短く固定されていく。式場の床も、音楽も、隣に立つ人の顔も想像しない。梨沙が階段で裾を踏まず、写真のときだけ少し背筋を伸ばせれば、それでいい。透子が考えるのは、歩いたとき糸がつれないか、椅子へ座ったとき縫い目が見えないか、それだけだった。
途中、梨沙がケーキの箱を開けた。二人分の小さなモンブラン。蝋燭は一本しかなく、「年齢を省略した」と言う。透子は手を止めず、「合理的」と答えた。
裾を一周し、最初の縫い目へ戻る。最後の三針だけ、指がうまく動かなかった。梨沙が布を支え、透子は針先をゆっくり押し出した。
裏側で糸を二度くぐらせ、結び目を作る。透子は緑の糸を指に巻き、はさみを入れた。
刃が閉じ、最後の糸が切れた。