西向きの社員寮
社員寮の退去時刻まで十分。滝沢晃人は、西日の差す窓から薄いカーテンを外していた。福岡支社への転勤は明日。池端和奏は床に座り、カーテンフックを一つずつ透明な袋へ入れている。
「これは置いていって」
「会社の備品じゃないだろ」
「私が買ったから」
同棲を始める前、和奏が初めてこの部屋へ泊まった朝、眩しすぎると言って選んだカーテンだった。夕方になると部屋全体が橙色になり、二人はテレビをつけずに壁の色が変わるのを見た。カーテンの裾には、晃人がアイロンを焦がした三角形の跡がある。和奏はそこを切らず、『うちの印』と残していた。
晃人の転勤が決まった日に、和奏は「実家に戻る」と言った。彼女の家は京都で小さな旅館を営んでいる。跡を継げと呼び戻されていることを、晃人も知っていた。
「福岡へ来ないこと、親にはもう話した?」
「今日、話してきた」
「なら、決まったんだな」
「うん。決めた」
和奏はフックの袋を閉じた。晃人はその返事を、旅館へ戻る決意だと受け取った。
「鍵、机に置いて」
「最後まで命令するんだ」
「持って帰っても使えない」
二十一時五十七分。和奏は合鍵を窓枠へ置いた。西日が金属の頭に細く残る。
「晃人は、一度も『来てほしい』って言わなかったね」
「仕事も家族も捨てろとは言えない」
「捨てるんじゃなく、選びたかった」
「もう選んだんだろ」
和奏の携帯は朝から電池が切れていた。彼女が充電器へつないだ瞬間、留守番電話が再生された。旅館の女将である母親の声が、静かな部屋へ流れる。
〈福岡でやってみなさい。跡継ぎを断るために帰ってきたんでしょう。晃人さんにも、ちゃんと伝えなさい〉
晃人はカーテンを持ったまま動けなかった。
和奏は再生を止めた。「伝える前に、鍵を返せって言われた」
退去を知らせるチャイムが鳴る。管理人が廊下で待っている。
晃人が口を開くより先に、和奏は窓枠の鍵を取った。返すのではなく、自分の鞄へ戻す。
「福岡で使えるかどうか、私が決める」
彼女はカーテンも抱え、管理人の横を通って部屋を出た。晃人は西日の消えた窓を閉め、二人分の退去届を一枚だけ提出した。