角だけのグラタン

郡司詠美が実家の食卓へ座ると、父は焼きすぎたグラタンを出した。

母が使っていた四角い耐熱皿だった。チーズの匂いは濃いのに、四隅は乾いて茶色く固まり、スプーンを入れると薄い板のように割れた。皿の取っ手は布越しでも熱かった。

父は「真ん中なら食べられる」と言い、自分は向かいへ座ったまま手をつけない。

詠美は今日、不動産会社から実家の査定書を受け取った。母が亡くしたあとに分かった住宅ローンと、父の店の借金を返すには、この家を売るのがいちばん早い。

父には、名義の確認をしているとしか伝えていない。父は詠美が来月ここへ戻り、空いた母の部屋を使うと思っている。冷蔵庫には彼女の好きだったものを入れ、玄関には新しいスリッパまで用意していた。近所には「娘が帰る」と話し、母の衣類を半分だけ処分して、残りを詠美のために空けたと言った。父に悪意はない。その善意の一つ一つが、帰る以外の選択を狭くした。

詠美は戻るつもりがない。職場も恋人も今の町にいる。何より、母のいない家で母の代わりに父の食事を作る暮らしを想像すると、息が詰まった。父が「料理はそのうち頼む」と笑ったとき、詠美は笑い返した。グラタンを焼いた今夜でさえ、父は自分の皿を用意せず、娘が味を決めるのを待っている。

その気持ちを言えば、病気の母を最期まで看た父へ恩知らずだと思われそうだった。売却の話より、自分は帰らないという話のほうが難しい。

詠美は、父が勧めた柔らかい中央へは手をつけず、乾いた角から食べ始めた。固いチーズを割り、何度も噛む。子どものころ、角は父の分、中央は詠美の分だった。

四隅を一つずつ食べると、中央だけが正方形に残った。そこへ査定書を折らずに置く。熱が移らないよう、皿と紙の間にはコースターを挟んだ。

「売る相談をした」

父は紙を見てから、中央の柔らかなグラタンを見た。

詠美は最後の角を一口分だけ残した。父のためではない。全部を自分が引き受けた形にしないためだった。

父は査定書を取り上げ、残った中央へラップをかけた。

「明日、二人で聞きに行く」

詠美はうなずいた。父は玄関に置いた新しいスリッパを箱へ戻し、母の部屋の鍵を詠美へ渡さなかった。帰る場所をなくすためではなく、帰る役目を押しつけないための動きに見えた。

家を残すか売るかは決まっていない。それでも、四つの角を一人で噛み続ける話ではなくなった。残した一口は、父の分でも母の分でもなく、二人で決める余白だった。