訳さなかった一語

海外企業との技術提携がまとまると、鷲尾隆文本部長は「難航した交渉を私がひっくり返した」と社内で語った。

実際の交渉席で発言していたのは柊木弥帆だった。鷲尾は英語資料を読み上げ、相手が質問すると弥帆へ「細かいところを訳して」と振るだけだった。それでも調印式の登壇者から弥帆の名は外された。

当日、提携先の花房琴路副社長が日本語版契約書を開いた。

「鷲尾さん。第十八条で、弥帆さんが一語だけ訳さなかった理由を教えてください」

鷲尾は余裕の笑みを見せた。

「直訳では文化的な誤解が生じると判断しました」

「どの単語ですか」

答えが出ない。

花房が弥帆へ促した。弥帆は、英語原文の“exclusive”だと答えた。最初の草案は「独占的」と訳せたが、そのままでは提携先が日本市場の改良技術まで独占できる。弥帆は訳語を保留し、共同所有へ条文自体を直すまで日本語版を確定しなかった。

「その修正で、御社には少なくとも数十億円分の権利が残りました」

花房が言った。

鷲尾は咳払いした。

「当然、私の交渉方針に沿ったものです」

花房は録音の再生ボタンを押した。会議室に鷲尾の声が流れる。

『独占でいいから早くサインさせろ。細かい権利は後で考える』

続いて弥帆の声が流れた。署名を止め、相手方へ修正を提案し、代わりに海外販売権を譲ることで合意点を作っている。三時間の音声に、鷲尾の建設的な提案は一つもなかった。

花房は調印台から鷲尾の名札を外した。

「弊社が提携を決めたのは、弥帆さんが互いの利益を守ったからです。あなたは署名を急がせただけ。次のアジア五か国交渉も、彼女が首席交渉人でなければ参加しません」

社長は弥帆を壇上へ呼び、鷲尾に代わって契約書へ署名させた。

最後に花房が英語版の担当者欄を示した。そこには初めから、Chief Negotiator, Miho Hiiragi と印字されていた。訳されなかった一語が守った席へ、鷲尾の名前だけはどの言語でも戻らなかった。