証言のない証人

皆木奈津は、殺人事件を目撃した翌日に記憶を削除した。

駅の地下通路で男が刺される瞬間を見た。血の匂いと、倒れた人の目が頭から離れず、眠るたびに同じ十秒へ引き戻された。警察は供述を映像記録し、脳内証拠認証を済ませたあと、被害者支援制度による削除を認めた。

施術後、奈津は地下鉄へ乗れるようになった。赤い傘を見ても震えず、夜も眠れた。事件について知っているのは、報道で読んだ内容だけだった。

ところが一年後、裁判で問題が起きた。供述記録の一部が保存障害で欠け、弁護側は「本人が覚えていない証言は反対尋問できない」と主張した。検察は奈津に出廷を求めた。

法廷で奈津は、自分が残した映像を見た。画面の中の自分は泣きながら、犯人の服装、逃げた方向、刺した回数を話していた。声も顔も自分なのに、知らない女性の告白を聞いているようだった。

「本当に見たのですか」

弁護士に問われ、奈津は答えた。

「今の私は覚えていません」

傍聴席がざわめいた。

「では、その供述が正しいという根拠は?」

奈津は用意された答えを忘れ、しばらく黙った。記憶を消した自分を、無責任だと思う人もいるだろう。被害者を置いて逃げたのだと、自分自身さえ感じた。

そのとき、画面の中の奈津が最後に言った言葉を思い出した。事件ではなく、映像を見たばかりの今の記憶だった。

〈明日の私は、これを知らない。それでも、今日の私が嘘をついていないことだけは信じてほしい〉

奈津は顔を上げた。

「私は事件を証言できません。ただ、あの日の私が、忘れる前に何を選んだかは証言できます。彼女は怖がりながら、記録を残しました。今の私は、その選択を撤回しません」

その言葉だけで有罪になるわけではなかった。裁判は長引き、判決は別の証拠によって下された。

奈津の人生も、劇的には変わらなかった。ただ彼女は、その後、記憶削除を受ける犯罪被害者の相談員になった。忘れることは逃げではないと伝え、同時に、忘れたあとの自分へ残す言葉を一緒に考えた。

奈津の机には、施術前の自分が書いた短い紙がある。

〈覚えていなくても、あなたはあの日を生き延びた人です〉

奈津は毎朝それを読み、知らない自分から一日分の勇気を受け取った。