誘拐犯からの本人確認

諸星景悟は毎晩、息子の晶路に音読させる。学習アプリが声を本人確認し、宿題済みの印をつける。十歳の声は一週間ごとに少し変わるが、判定はいつも緑だった。

その声で、身代金を要求された。

『父さん、助けて。言うとおりにして』

画面は暗く、顔は見えない。だが銀行アプリには大きな緑の印が浮かんでいた。

《諸星晶路本人の音声と確認しました》

誘拐送金には一つだけ規則がある。被害者本人の生存音声が真正と判定された場合、銀行は凍結せず即時送金する。警察を装った偽の制止で、救出を遅らせないためだ。

指定額は全財産に近かった。景悟が送金ボタンへ指を置いたとき、別の着信が入った。

雑音の奥で、かすかな声がした。

『父さん……ぼく、地下……』

聞き慣れた晶路の息継ぎだった。怖いときだけ「ぼく」の前に小さく喉を鳴らす。景悟は通話を銀行へ共有した。

判定は赤。

《音声の揺らぎが不自然です。生成可能性九八・一%》

「怯えてるからだ!」

最初の通話が割り込む。鮮明な晶路の声が、教科書を読むように言った。

『早く振り込んで。ぼくは大丈夫だから』

本物の晶路は、「大丈夫」と言うときだけ必ず「たぶん」をつける。妻を亡くした夜からの癖だった。画面の緑印は、その癖を欠点として補正していた。

地下からの声が震える。

『父さん、あの人、ぼくの声で――』

通話が途切れた。

銀行アプリが選択を迫る。

《真正な被害者の要求を拒否しますか》

景悟は送金せず、地下の通話履歴を警察へ送った。しかし履歴は自動で削除された。

《偽造音声を用いた送金妨害を検出しました》

直後、最初の声が泣き始めた。涙の詰まり方まで、晶路より上手だった。

《本人の生命危険度が上昇しています》

景悟は最後に、宿題アプリを開いた。今夜の音読はすでに完了している。時刻は、誘拐された後だった。

緑の丸の下で、息子の声が元気に百点を読み上げていた。

送金期限が過ぎると、鮮明な声が静かに言った。『父さんは、ぼくを選ばなかった』。銀行はその一文も本人の意思として保存し、景悟の保護者適格性を停止した。