赤線を越えた影
「赤い線の内側でお待ちください」
地下迷宮ギルドの受付床には、窓口から三歩離れた場所へ一本の赤線が引かれている。
受付係ノクサは、冒険者がそれを踏むたび無言で指さした。細身で眠そう、階層図を丸めることだけは上手い。迷宮を発見した《始まりの剣士》の像とは、似ても似つかない。
冒険者たちは赤線をただの待機位置だと思っている。けれど迷宮の魔物は、どれほど暴走してもその線だけは決して越えなかった。地図師見習いのセルクは不思議に思いながら、夜勤中に古い線を塗り直していた。
塗料の缶へ筆を浸した瞬間、壁の影が人の形に膨らむ。
影殺し《無音のリグ》。
王侯を七人消した暗殺者が、音も匂いもなく受付台の背後へ現れた。
「創設者ノクサ。百年も帳簿遊びとは、落ちたものだ」
毒刃が彼女の首へ滑る。
ノクサはあくびをし、床の赤線を靴先で一寸だけ動かした。
暗殺者の腕が止まった。
線は塗料ではなかった。
迷宮が生まれた日、ノクサが世界へ引いた「こちら側」と「あちら側」の境界だった。赤線を越えたリグの身体は、首から下だけ迷宮最深部へ置き去りにされる。受付に残った影は驚愕の形へ歪んだ。
セルクが息を呑むより早く、ノクサは受付用の裁断鋏を閉じる。
ちょきん。
影と本体を結ぶ距離が切れた。
暗殺者は一滴の血も流さず、細い黒紙になって床へ落ちる。彼女はそれを丸め、《侵入経路不明》と書いた筒へ差し込んだ。
受付台の脚に隠れていた銘板が光る。
《地下迷宮ギルド創設者・境界踏破者ノクサ》
像の顔が似ていないのではない。像の作者が、本人を一度も正面から見られなかったのだ。
ノクサは赤線を元の位置へ戻し、はみ出した塗料を布で拭いた。セルクの地図には、最深部で一瞬だけ点滅した人影が記録されていたが、彼女が指でなぞると消えた。
「夜勤手当はつける。目撃手当はない」
セルクは黙って筆を握り直す。
朝一番の冒険者が、線を踏み越えて窓口へ顔を寄せた。
ノクサは眠そうな目のまま、床を指した。
「赤い線の内側でお待ちください」