辞書が開く頁
国語教師を辞める日、教え子たちは花束をくれた。
一人だけ、来なかった生徒がいる。
三年前、授業中に詩を笑われ、教室を飛び出した少年だった。
教師は追わなかった。
翌日には登校すると思い、次の授業を続けた。少年はそのまま学校を辞めた。
職員室の机には、三十年使った国語辞典が残った。
持ち上げると、勝手にある頁が開いた。
「追う」
教師は閉じた。
もう一度開くと、今度は、
「遅い」
腹を立てて鞄へ押し込んだ。
帰宅後、辞典は床へ落ち、
「謝る」
の頁を開いた。
辞典は、持ち主が避けている言葉のところで開くらしい。
教師は少年の連絡先を探した。
住所は古く、電話番号は使われていない。
卒業生へ尋ねると、駅前の印刷所で働いていると分かった。
訪ねる勇気が出ない夜、辞典は毎回「逃げる」を開いた。
印刷所の前まで行き、三度通り過ぎた。
四度目、辞典を脇に抱えて入った。
少年は青年になり、紙を裁断していた。
教師を見ると、作業の手を止めた。
用意していた言葉は、
「君には才能があった」
だった。
だが辞典が腕の中で開いた頁は、
「傲慢」
だった。
教師は才能の話をやめた。
「あの日、追わなかった。次の授業の方が大事だと思った」
青年は黙っていた。
「君が傷ついたことより、自分が困ることを避けた。すまなかった」
青年は許すとも許さないとも言わなかった。
奥から一枚の紙を持ってきた。
小さな同人誌の表紙で、青年の名前が印刷されていた。
詩を書き続けているらしい。
「先生のおかげではないです」
「分かってる」
教師は答えた。
それが、辞典を見なくても言えた最初の言葉だった。
帰り道、辞典は「安心」の頁を開いた。
教師は少し腹を立てた。
安心する資格まで、辞典に決められたくなかった。
退職後、教師は町の文芸講座を始めた。
作品を読む前に、必ず本人へ尋ねた。
「どこまで意見を言っていいですか」
以前なら、指導する側が決めることだと思っていた。
数年後、講座の冊子を印刷所へ頼んだ。
届いた箱には、青年から短い紙が入っていた。
「追いつかなくても、来たことは覚えています」
辞典に挟むと、勝手に開いた。
頁は「赦す」ではなく、
「続く」
だった。
教師はその言葉を閉じなかった。
辞書の中央に残し、次の授業まで机の上へ置いた。