退勤後のスタンプ

 萌絵は十九時五十九分に業務用のパソコンを閉じた。

 在宅勤務の日は、退勤の境目が薄い。椅子から立っても同じ部屋、夕飯を食べても同じ机だ。だから同じチームの三人と、個人用のメッセージアプリに「退勤避難所」というグループを作っていた。仕事が終わったら、各自好きなスタンプを一つ押すだけ。熊が倒れ込む絵や、猫が布団へ潜る絵が並ぶと、窓を開けなくても会社の外へ出た気がした。

 今日は萌絵が最初だった。机に突っ伏した白い犬のスタンプを送り、続けて〈議事録、三回差し戻されたので犬になりました〉と書いた。

 二十分後も既読ゼロだった。

 いつもなら誰かが笑う顔を押してくれる。文章まで添えたのが余計だったかもしれない。三回も差し戻された話は、愚痴として重いのかもしれない。「犬になりました」の意味もよく分からない。

 萌絵は冷蔵庫から昨夜のカレーを出した。ラップの下で、じゃがいもの表面が乾いている。電子レンジを回している間、チャットを開いては閉じた。送信取り消しはできる。だが「メッセージの送信を取り消しました」と表示されるほうが、むしろ気にしている人に見えそうだった。

 温め終わったカレーは中心が冷たかった。もう一分かける。その一分で、業務用パソコンの通知ランプが点滅した。誰かから連絡が来ている。見れば仕事へ戻ることになる。見なければ、明日の朝までそこにある。

 萌絵はパソコンに薄い布を掛けた。物理的に見えなくすると、ランプはなかったことになった。

 チャットの三人も、まだ退勤できていないだけかもしれない。萌絵の冗談が失敗したのではなく、観客が入場していない。そう考えると、白い犬が一匹で机に伏せている画面が、少し可愛く見えた。

 カレーを二度目の加熱から出し、今度は混ぜずに食べた。熱いところと冷たいところが交互に来る。

 説明も訂正もせず、スタンプはそのままにした。誰にも笑われていない冗談で、自分がほんの少し笑えたなら、今日の退勤には十分だった。