送信予約を解除して
コワーキングスペースの閉館まで、あと十四分だった。
針生夏帆の向かいで、大庭誠志がノートパソコンを開いている。画面には、午前零時に送信される長いメールが表示されていた。
「また送るの?」
「会えなかったら、これを最後にしようと思って」
「三年前と同じだね」
夏帆が国家資格の試験を受けた朝、誠志はいつも通り駅まで送った。頑張って、と笑い、昼休みに食べる菓子まで渡した。
試験終了の一分後、別れのメールが届いた。
転勤が決まり、遠距離を続ける自信がない。試験前に動揺させたくなかったから、送信予約にした。文面は丁寧で、質問への答えまで先回りしてあった。
夏帆には、返事をする相手がいなかった。合格通知を見たときも、最初に報告したかった番号は圏外のままだった。以来、長いメールが届くと、本文より先に送信時刻を確かめる癖がついた。
電話は電源が切られ、彼はその夜の新幹線で街を出た。
「送るほうが、ちゃんと整理できると思った」
「整理されたのは、あなたの罪悪感だけ」
「そうだね」
「今回も全部書いた?」
「謝りたいことは」
「私が何を言うかも?」
閉館の音楽が流れ始める。誠志は明朝、海外赴任へ発つ。ここを出れば、次に会える保証はない。
三年のあいだ、誠志は年に一度だけ誕生日の言葉を送った。夏帆は毎回、返信を書いては消した。返せば、また彼の決めた時刻に自分の気持ちを並べることになる気がした。
夏帆は彼をまだ好きだった。けれど好きと言えば、三年前の一方的な終わり方まで、遠距離のせいだったことにされそうで言えなかった。
「メールなら、最後まで遮られないから」
「それが嫌なの」
「じゃあ、何をすればいい」
「逃げないで聞いて」
夏帆はパソコンを自分側へ引き寄せた。送信予約の解除ボタンに指を置く。
「今も好きかって聞きたいんでしょ」
誠志は黙ってうなずいた。
「送らないで」
「答えを?」
「違う。送らないで、ここで言って。私の返事が、あなたの予定通りじゃなくても」
夏帆は予約を解除し、下書きも閉じた。スタッフが照明を一列ずつ消していく。
誠志が口を開くまで、彼女は鞄を持たなかった。午前零時になっても届かないメールを、今度は二人とも待たなかった。