送金ボタンの手前

佐和がスーパーのレジに並んでいると、父からチャットが来た。

〈今月、三万円だけ頼めないか〉

給料日前だった。かごには豆腐、卵、半額の鶏肉。佐和は銀行アプリを開き、送金先に父の名前を入れた。金額欄へ「30000」と打つ。

父から追加のメッセージが届く。

〈娘にしか頼めない〉

〈来月必ず返す〉

「来月」は何度も来た。けれど父の頼みはいつも一回きりの顔をしていた。佐和が断れば、〈家族だろ〉が送られてくる。

レジが一人分進む。佐和は送金ボタンの手前で指を止め、銀行アプリを閉じた。

〈今月は送らない〉

既読がつく。

〈冷たいな〉

佐和はかごの中の半額シールを見た。父の困り事を無視したいわけではない。だが、自分の暮らしを削ることだけが助け方になっていた。

〈市の相談窓口なら、予約を一緒に取る〉

〈必要な書類も調べる〉

〈そんな大げさな話じゃない〉

〈大げさじゃないなら、私のお金も要らないはず〉

送ったあと、後ろの人がかごを持ち替えた。佐和はレジへ進み、財布を出す。

会計中、父から〈もういい〉と来た。続けて、怒った顔のスタンプ。

佐和は返信しなかった。拒んだことで、父が一人になるのではないかという恐怖は残った。けれど、送金しなければ娘でなくなる関係なら、その条件を一度外してみたかった。

帰宅後、父から新しいメッセージが届いた。

〈窓口、平日だけか〉

佐和は営業時間を調べ、リンクを一つ送った。

〈金曜は夜七時まで〉

〈分かった〉

送金履歴を開くと、一万円、二万円、五千円が不規則に並んでいた。どれにもメモはなく、返金の記録もない。父は金額を覚えておらず、佐和だけが通帳の残高で覚えていた。合計を出すことはしなかった。過去の精算を始めれば、また今月の三万円を送る理由にしてしまう。今日は今日の一回を断る。それだけに絞った。

三万円は口座に残った。佐和は鶏肉を小分けにし、一食分ずつ冷凍した。父を見捨てず、自分の生活も差し出さない。送らなかった金額が、初めて境界線の形に見えた。