鍵を渡す前の電話

尾形柑奈は、大河の部屋の合鍵を受け取る前に、管理会社へ電話した。

「同居人を追加したいのですが、必要な手続きを教えてください」

電話口の担当者は、契約番号を確認したあと言った。

「こちらは単身者限定です。同居は認められておりません」

柑奈は目の前の鍵を見た。大河が駅前の店で複製し、透明な袋に入れたまま持ってきたものだ。

「大丈夫だよ。みんな黙って住んでるから」

昨夜、手続きについて訊いたとき、大河は軽く答えた。柑奈も一度は頷きかけた。家賃は安く、立地もいい。次の更新まで一年ある。新しい部屋を借りれば、初期費用だけで何十万円もかかる。

二十九歳になって、規則どおりでなければ動けない自分を、臆病だと思うことがある。誰も困らない抜け道を使えないせいで、機会を逃してきたのかもしれない。

けれど、同棲を始めた日から、足音を小さくし、郵便物を隠し、管理人とすれ違うたびに他人のふりをする未来も見えた。

テーブルには二本の鍵がある。大河の複製鍵と、柑奈の部屋の鍵。一本に減らせば家賃は減る。代わりに、自分の名前も住所から消える。

電話を切ったあと、柑奈は透明な袋を大河へ押し戻した。

「ここには住まない。二人で契約できる部屋を探すなら、同棲したい」

「そんな金、もったいないよ」

「もったいないと思うなら、今は別々でいい」

大河は鍵を受け取らず、テーブルに置いたまま帰った。

柑奈はその鍵を封筒に入れ、彼の郵便受けへ返しに行った。新しい部屋を探すことになるか、二人が別れることになるかは分からない。

夜の郵便受けまで歩くあいだ、封筒の中で複製鍵が硬い音を立てた。柑奈は、自分が融通の利かない人間に思えた。けれど毎日帰る場所で、見つからないことを願い続けるのは、暮らすことではなく潜むことだ。その違いを大げさだと笑われても、笑われたまま選ぶしかなかった。

それでも、隠れて暮らす安さではなく、名前を出して暮らす高いほうを、自分の条件として引き受けた。