鏡にだけ読める文字

御厨季里は喫茶「藍鼠」で、後輩への謝罪文を直し続けていた。

後輩の企画は、働く母親向けの新しい配送枠だった。季里は数字の弱い部分を補っただけなのに、発表の順番を奪った。会議録には季里の発言だけが残り、後輩の名は括弧の中にさえなかった。

謝罪を送るだけでは、会議の記録は直らない。その作業まで含めて初めて、自分のしたことを表へ戻せる。

会議で後輩が出した企画を、季里は自分の補足案のように説明した。悪意はなかった。場を止めたくなかっただけだ。けれど上司が季里を褒めたとき、訂正しなかった。

後輩は何も言わず、会議後の共有資料から自分の名だけ消した。

季里の下書きは、〈誤解を招く表現があり〉から始まっていた。主語を曖昧にし、意図はなかったと続け、最後に今後ともよろしくと結ぶ。仕事ではよく見る、誰も傷つけたことにならない文章だった。

店主が置いた灰青色のカップには、白い文字が逆向きに印刷されていた。昔の転写ミスなのか、店名らしい文字列が右から左へ歪んでいる。

窓が暗くなると、カップが硝子に映った。反射の中でだけ文字は正しく並び、「あいねず」と読めた。

店主は照明を一段落とし、窓の映り込みを濃くした。それからカップの持ち手を少し回し、実物の逆さ文字と、窓の中の正しい文字が同時に見える位置へ置いた。説明はなかった。

季里は謝罪文へ戻った。

〈誤解を招く表現がありました〉を消す。

〈会議で、あなたの企画を私の案のように話しました。上司に褒められたとき訂正しませんでした。私のしたことです。ごめんなさい〉

そこまで書くと、余計な経緯を足したくなった。けれど窓の中の文字は、裏返すだけで読めている。飾りは要らなかった。

会計で店主は領収書へ店名の印を押した。印面は鏡文字なのに、紙には正しく「藍鼠」と残った。

季里は後輩へ謝罪を送った。続けて上司と会議参加者全員へ、企画の発案者を訂正するメールを送る。

画面を閉じると、硝子に自分の顔が映った。その前で、逆さ文字のカップだけが正しく読めていた。