鏡のない聴取室

真崎卓也警部補は、「鏡の向こうに課長がいた」と三度繰り返した。

三輪田深雪監察官が立っている第四聴取室には、鏡などない。白い壁、机、椅子が二脚。半年前、ここで被疑者の鼓膜が破れた。真崎は単独で暴行したとされ、本人も殴ったことは認めている。ただし、丹羽瀬秀臣刑事課長が壁越しに指示し、やめようとすると机上のランプを点滅させたという。

「鏡があった証拠は?」

「見た。課長が腕を組んでいた」

「室内図には最初から壁です」

「なら、俺は何を見てたんだ」

真崎は笑った。自分一人の処分で終わると知っている男の笑いだった。

現場再検証は十分だけ。深雪の上司は「壁を傷つけるな」と念を押していた。彼女は照明を消し、懐中電灯を横から当てた。白い壁紙の下に、長方形の段差が浮かぶ。四隅には新しいパテ。ねじ頭には事件後に配備された電動工具の傷があり、換気口の網には、銀色の小片が挟まっていた。改装が事件より後であることを、壁そのものが証言していた。

ピンセットで取ると、片面だけ黒く塗られたガラスだった。一方向から光を通す観察鏡の破片。

「事件後に外した」

真崎がつぶやいた。

深雪は壁を軽く叩いた。中央だけ音が空洞だ。

扉が開き、丹羽瀬が入ってきた。

「検証時間は終わりだ。その破片は改装時の廃材だ」

「改装記録はありません」

「古い設備を撤去しただけだ。真崎は自分の暴行を薄めたい。監察官なら、加害者の言葉より組織の記録を信じろ」

真崎が俯いた。

丹羽瀬は声を落とした。

「鏡があったと認めれば、過去十年、この部屋で取った自白が全部争われる。被疑者が何人戻ってくると思う。真崎一人の罪を、県警全体へ広げるな」

深雪は壁紙の端へ指をかけた。丹羽瀬が手首をつかむ。

「命令だ」

彼女はその手を振りほどき、壁紙を一気に剥がした。

黒い観察窓の枠と、隣室へ通じる配線が現れた。赤いランプはまだ残っている。

深雪はガラス片を報告書の中央へ置き、現場写真のシャッターを押した。