鏡の前の黒い櫛

「髪を整えましょう」

女主人イオリスが鏡台へ座ると、侍女シュカはいつもそう声を掛けた。

長い銀髪を梳き、香油を一滴なじませ、真珠の髪飾りを左へ留める。夜会の日も喪の日も手順は同じ。シュカの指は優しいが、私事を尋ねれば笑って話を逸らした。

その夕べ、鏡の中のイオリスだけが笑わなかった。

本人が瞬きをしても、鏡像は目を開いたまま。

やがて鏡の奥から黒い手が伸び、映った首へ細い刃を当てた。鏡像を殺せば本体も死ぬ、宮廷呪殺師《逆さ顔》の術だった。

イオリスは声を失う。

シュカは黒檀の櫛を一本抜いた。

「少し引っかかります」

櫛を髪へ通す。

さらり、と銀髪が流れた。

鏡の中の黒い手は消え、イオリスの鏡像は再び本人と同時に瞬きをした。刃も呪殺師も、最初から存在しなかったように。

ただ、鏡の縁に飾られた小さな水晶だけは、別の角度を映していた。

シュカは櫛の歯一本を鏡面へ差し込み、ガラスの向こう側へ踏み込むことなく敵の影を引き寄せた。髪を梳くのと同じ一動作で、影から命の絡まりだけを解く。呪殺師は驚愕したまま黒い髪の束へ変わり、櫛に巻き取られた。

かつて鏡の国の王族を一晩で消した伝説の暗殺者《黒櫛》

彼女が標的の髪を一本手にすれば、千里離れていても朝日は拝めないといわれた。

シュカは櫛に絡んだ黒髪を紙へ包み、鏡台の蝋燭で燃やす。煙は香炉へ吸わせ、灰は白粉の空箱へ。鏡面に残った指跡を布で拭き、わずかにずれた椅子も元の位置へ戻した。

「あなたが、黒櫛?」

イオリスは鏡越しに尋ねた。

シュカの手が一瞬止まる。

それからいつもの温度で銀髪を分けた。

「昔話の怪物は、もっと年寄りではございませんか」

「鏡の中にいた男は?」

「お疲れで、影が二重に見えたのでしょう」

鏡は澄み、証拠を一つも返さない。

それでもイオリスは知っていた。背後に立つ侍女が、今夜、自分の命だけでなく恐怖まで梳き取ったことを。

シュカは真珠の髪飾りを左へ留める。

鏡像も同じ動きをし、もう勝手には笑わない。

彼女は櫛を置き、冒頭と同じ声で告げた。

「髪を整えましょう」