閉宴後の指輪箱
模擬披露宴の配信が終わり、会場の閉館まで十五分になった。
ウェディングプランナーの桃子は、左手の薬指から撮影用の指輪を外した。新郎役を務めた玲央が、空の指輪箱を差し出す。
「本物みたいだったね」
「演出です」
「手を握ったのも?」
「台本にありました」
二人は会社の宣伝動画で何度も夫婦役をしてきた。笑う角度も、指を絡めるタイミングも、顧客が安心するように練習した。
桃子が好きだと言えない理由は一つ。何を言っても、玲央には仕事の続きを演じているように聞こえる気がした。本気だと証明しようとするほど、上手な台詞になってしまう。
撮影では、玲央が桃子のベールを直し、耳元で「きれい」と言う。そのたびカメラマンが満足そうに頷いた。配信が切れると、二人は敬語へ戻った。先月、桃子が発熱したとき、玲央は台本にないはずの粥を玄関へ置いた。メッセージには〈新郎役のアフターサービス〉とだけあった。冗談に逃げたのが彼なのか、自分なのか、桃子には分からなかった。今もテーブルには、祝福用の造花と空のシャンパンボトルが残っている。桃子の薬指には、撮影用リングの薄い跡だけが残り、そこへ視線を落とすたび、仕事と本気の境目がぼやけた。
「来月から営業部なんだって?」
「うん。今日で新郎役も終わり」
「よかったですね」
「寂しくない?」
「演出ですから」
二度目の言葉は、指輪より冷たかった。
スタッフが遠くで椅子を畳む。あと十分。玲央はネクタイを緩め、台本をゴミ箱へ入れた。
「じゃあ、台本にないこと聞く」
「何ですか」
「俺が異動したあと、二人で食事に行くのは仕事?」
桃子は指輪箱を閉じようとした。玲央が蓋を押さえる。
「逃げるなら、閉館までここにいる」
「困ります」
「それは演出?」
照明が一列ずつ落ちていく。
「演出じゃないところで、もう一度聞いてください」
三度目は、同じ言葉を使わなかった。
桃子は指輪を箱へ戻したが、差し出された玲央の手から自分の手を離さなかった。
閉館を告げる音楽の中、二人はつないだまま非常口へ歩いた。