閉店した花屋の庇
音無川啓は、商店街の途中で雨に降られ、閉店した花屋の庇へ入った。
シャッターには〈長い間ありがとうございました〉と貼られている。
庇の下には、花束を抱えた年配の女性が先にいた。
「閉店したのに、花がある」
啓が思わず言うと、女性は笑った。
「別の店で買ったの。ここへ来る癖が抜けなくて」
花束には白いトルコ桔梗と薄紫のリンドウが入っていた。
雨は商店街の屋根のない部分だけ強く濡らしていた。
女性は花の包みを少し開き、蒸れないようにする。
「誰かへ?」
「自分へ。前はこの店で、月に一度選んでもらってた」
「花を自分に買うんですね」
「誰が買っても、花は家へ来るでしょう」
啓は、閉店した店のシャッターを見た。
自分はこの商店街へ最近引っ越したばかりで、花屋が開いていた頃を知らない。
「どんな店でした?」
「店主が、こちらの話をあまり聞かない店」
「接客としては問題では」
「でも、顔を見て勝手に花を選ぶの。落ち込んでる日は黄色、元気な日は白」
「外れたら?」
「外れても、家で眺めてるうちに合ってくる」
女性は花束から、折れかけた小さなリンドウを一本抜いた。
「これ、持っていく?」
「僕に?」
「今日、青が似合いそうだから」
啓は断りかけたが、受け取った。
雨宿りの間、二人は花屋の思い出を少し話した。
店先の水桶、冬のストーブ、新聞紙を切る鋏の音。
啓の知らない景色なのに、花の匂いと一緒に聞くと、シャッターの向こうへ薄く見えるようだった。
雨が上がると、商店街の舗道に明るい筋が差した。
女性は花束を抱え直し、反対方向へ歩いていく。
「その花、水へ入れてね」
「花瓶がありません」
「コップで十分」
啓は帰宅し、透明なグラスへリンドウを挿した。
少し曲がった茎が、窓辺でちょうどよく立った。
部屋へは雨上がりの空気と、花の青い香りが入る。
知らない店の思い出を一本だけ分けてもらったことで、新しい町が少し近くなった。
閉店した花屋の庇は、もう花を売らなくても、雨の日だけ小さな店先へ戻るのかもしれなかった。