離れた影を縫い戻す夜底湯

 《灯なし宿》の主人シグは、客ヴェルカより先に、その影を見た。

 影は足元から半歩離れ、勝手に壁を這っていた。暗殺者の影は本来、主と寸分違わず動く。離反した影は任務中に敵へ居場所を知らせ、失敗した暗殺者は夜明けに処刑される決まりだという。

「影を殺せるか」

「殺せば、あなたも半分消えます」

「なら、縫い戻せ」

 シグは地下最深部の《夜底湯》へ案内した。灯火も月明かりも届かず、湯面と床の境さえ見えない。

「入れば影がなくなる」

「なくなるのではなく、影と同じ暗さになります」

 ヴェルカが湯へ沈む。離れた影は入口で踏ん張り、暗殺者とは逆に出口へ手を伸ばした。任務のたび、刃が振り下ろされる瞬間だけ目を背けていた影だ。

 しかし暗闇には映る壁がない。行き場を失い、湯面へ細長く伸びた。湯は光を反さず、主と影のどちらが本体かという区別まで溶かしていく。

 シグは黒糸を一本だけ渡す。

「自分で結んでください。影が逃げた理由を知っているのは、あなたです」

 暗闇の中で、ヴェルカは長く黙った。処刑を恐れているだけなら影は戻らない、とシグは告げる。

「もう殺したくなかった」

 影が震える。浴槽の底で、刃を持つ形から空の手へ変わった。

「命令に従う私から、先に逃げたのか」

 ヴェルカは影を責めなかった。逃げる勇気を持っていた半分を、ようやく自分だと認めた。

 彼が黒糸を足首へ巻くと、湯面の影も同じ動きをした。結び目が締まった瞬間、冷えていた足先に温かさが戻る。

 湯上がり、シグが蝋燭を灯した。影はヴェルカの踵へぴたりとつき、遅れず揺れた。

「これで処刑を免れる」

「いや」

 彼は暗殺者の徽章を外した。

「戻って、辞めると伝える。今度は影より先に」

 ヴェルカは正規の銀貨を置き、予約帳へ偽名ではない名を書いた。

「生きて戻れたら、明晩もこの湯を」

 夕刻、宿の戸口へ彼の徽章だけが投げ込まれた。裏には《退職受理》の刻印がある。

 シグが初めての予約に丸をつけると、灯していない玄関ベルがひとりでに鳴った。