雨上がりの鰻
暗殺者を辞めたフェリスの開拓地には、雨が降るとだけ現れる細い流れがあった。
晴れた日に見れば、ただの石溝だ。だが初日の夕立が去ると、山から濁った水が走り、草の下で長い影がうねった。
鰻だ、とフェリスは気づいた。
宮廷では気配を消して人を待った。今夜は魚を待つ。やることは似ていても、終わったあと誰も死なない。それだけで胸が軽かった。
彼女は一本釣りの仕掛けを作った。細い枝を竿にし、丈夫な糸の先へ、元の主人から返された屋敷の鍵を重りとして結ぶ。もう開けることのない扉の鍵だ。泥の流れへ沈めるにはちょうどよかった。
餌を付け、草陰へ座る。濡れた外套から雨水が落ち、膝の横へ小さな水たまりを作った。宮廷では標的を待つ夜、寒さも空腹も感じないふりをした。今は火を起こす薪も、鍋へ入れる麦もある。魚が釣れなければ粥だけ食べればよい。その逃げ道があることが、かえって待つ時間を穏やかにした。
雨粒が葉から落ちる音に混じって、糸が一度だけ震えた。暗殺の合図ならすぐ動くところを、フェリスは待った。二度、三度。糸が横へ走った瞬間、竿を立てる。
黒い鰻が泥を跳ね上げ、草の上で身をくねらせた。予想以上の力に手を焼き、フェリスはとうとう声を出して笑った。標的に逃げられたときには許されなかった笑いだった。
小屋へ戻り、鰻を開いて串へ打つ。醤油に似た木の実の汁と蜂蜜を塗り、熾火の上で返す。脂が落ちるたび、じゅう、と甘い煙が上がった。鍋の麦飯からも白い湯気が立つ。
戸を叩いたのは、かつての上司だった。王の敵を一人始末すれば、地位も財産も戻すという。黒い命令書を差し出す手は、昔と同じだった。
フェリスは受け取らず、串をもう一度返した。
「今夜、仕留めるのはこれだけです」
「魚と国家を比べるのか」
「比べた結果です」
照りの出た鰻を麦飯へ載せる。熱い脂と甘い香りが、雨で冷えた小屋を満たした。
元上司が去ったあと、鍵の付いた仕掛けを軒下へ吊るした。過去へ戻る扉は開かない。その鍵は明日も、夕食を釣るために使える。