雨音が沸くまで
相馬萌黄は、家にいるあいだ何かを再生していた。朝はニュース、料理中は雑談番組、眠る前は朗読。音が止まると、仕事で言えなかった言葉や、返事の来ないメッセージが一斉に近づいてくる気がした。半年前に同棲を解消してから、部屋の音は全部一人分になった。寂しいと認める代わりに番組を増やし、笑い声が途切れる前に次を再生した。誰かの会話を借りているあいだは、自分が何を言えなかったのか考えずに済んだ。会社を辞めるか迷っていることも、友人との約束を断り続けていることも、番組が流れているあいだは考えなくて済んだ。再生履歴だけが長くなり、聞いた内容はほとんど覚えていなかった。
外壁工事で六日間だけ暮らす部屋には、雪村絢弓がいた。映画の録音助手で、帰宅すると窓や壁へ耳を寄せた。冷蔵庫の低い唸り、配管を流れる水、遠くの踏切。萌黄には雑音にしか聞こえないものを、絢弓は確かめるように聞いた。絢弓は会話が途切れても埋めようとせず、食事中に箸が器へ触れる音までそのままにした。沈黙を、失敗した会話として扱わない人だった。
二日目の夜、萌黄が片耳にイヤホンを入れたまま湯を沸かしていると、絢弓が訊いた。
「この部屋で、まだ聞いてない音は何だろう」
「隣の人の生活音とか?」
絢弓は答えず、イヤホンのケースを指した。
「明日、お湯が沸くまで何も再生しないでみて。三分くらい」
「三分も?」
絢弓は肩をすくめ、映画の台本へ戻った。
翌日は雨だった。萌黄は帰宅すると、反射的に番組を開いた。再生ボタンを押す寸前、流しの横に置かれた空のケトルが見えた。
水を注ぎ、火にかける。冷蔵庫が唸り、雨粒が換気扇の覆いを叩いた。上の階で椅子を引く音がし、自分の呼吸が思ったより浅いことに気づく。沈黙ではなかった。雨は窓枠の場所によって高い音と低い音に分かれ、ケトルの底では小さな泡が順番に弾けた。萌黄が聞こうとしなくても、部屋はずっと何かを話していた。今まで一つの音で全部を覆っていただけだった。
やがて湯が沸き、蓋が細かく震えた。課題は終わった。いつもの番組を流していい。
萌黄は火を止め、マグカップへ湯を注いだ。イヤホンを手に取り、耳ではなく壁のフックへ掛ける。
それから窓を指一本ぶん開け、雨の音が入る椅子へ座った。