雪で止まった最終バス

 最終バスは、雪のため十五分遅れていた。

 琴音と凌は、暖房の弱い待合室で並んで座っていた。凌の足元には大きなボストンバッグがある。今夜の便で町を出て、東京の会社へ転職する。

「道路、通れるかな」

「高速に乗れば帰れるよ」

「帰る、か」

 凌は窓の外を見た。白い息を吐くバスが、一台ずつ車庫へ戻ってくる。

 琴音はこの町を出られない。母が倒れてから、通院の付き添いも店の手伝いも彼女が担っていた。凌は何度も「一緒に来る?」と聞いたが、琴音は笑って断った。

 好きだと言えば、彼は残るかもしれない。

 その可能性が一番怖かった。自分の家の事情へ、彼の人生を縛りつけたくなかった。

「向こうで部屋決まったら教えて」

「遊びに来る?」

「時間できたら」

「母さんのこと、俺も手伝えるって言ったよな」

「だから行って。こっちは大丈夫」

「大丈夫って言う人の顔じゃない」

 発車案内が鳴り、乗客が立ち上がった。あと十分。

 凌は動かず、琴音の手袋を見た。右の親指だけ、店の伝票で擦れて薄くなっている。

「琴音は、俺が東京でうまくいけば満足?」

「うん」

「帰ってこなくても?」

「仕事があるなら」

「墓参りのときだけ帰るくらいでも?」

「帰れる場所は残ってるよ」

 二度目の「帰れる」は、言った本人にも他人行儀に聞こえた。

 凌はボストンバッグを立てた。

「俺、琴音に帰ってきてって言われたかった」

「言ったら、本当に戻るでしょ」

「戻るかどうかは俺が決める」

「私のために決めて、後悔したら?」

「琴音が勝手に後悔まで引き受けるなよ」

 乗車口が開く。運転手が切符を確認し始めた。

 琴音はスマートフォンを握った。凌を行かせることと、遠ざけることを同じにしていた。選ばせないのもまた、彼の人生を決めることだった。

「帰れる場所はある」

 琴音は息を吸う。

「違う。帰ってきてほしい。私がそう思ってるってことだけ、持っていって」

 凌はすぐには答えず、乗車列の最後へ並んだ。

 琴音はバス会社のサイトを開き、一か月後の土曜日、東京発の帰り便を一席予約した。支払いを済ませ、QRコードを凌へ送る。

 彼のポケットで通知音が鳴った。

 凌は乗車口の手前で画面を見て、初めて笑った。切符を消さず、そのままバスへ乗った。