雷が遠くなっても

「音が止むまで、手を貸して」

夏の夕立に追われて商店街の軒下へ入ったとき、菱田天音は秋庭篤志へ言った。

本当は雷が苦手だった。稲光を見ると、音が来るまでの数秒を数えてしまう。数が小さいほど、呼吸まで浅くなる。

子どものころの停電以来、大きな音が鳴ると身体が固まる。けれど二十八歳にもなって怖いとは言えず、篤志にも「人混みではぐれそうだから」と理由をつけた。

篤志は何も尋ねず、天音の手を握った。

二人は学生時代からの友人で、互いの弱みをいくつも知っている。篤志が高い場所を苦手なことも、天音が緊張すると早口になることも、笑い話にできた。それでも天音が雷を怖がることだけは隠してきた。好きな人の前では、守られる側になりたくなかったからだ。

空が白く光り、少し遅れて低い音が響く。天音の指に力が入ると、篤志は傘を開いた。

「駅まで歩こう」

「危なくない?」

「ここにいるほうが音、近い」

一つの傘へ入り、雨の通りを進む。篤志は水たまり側を歩き、天音の手をコートのポケットへ入れた。二人の指が見えなくなると、少しだけ素直に握れた。

駅へ近づくころ、雷は遠のいた。雨も細くなり、電車の音が戻ってくる。

「もう大丈夫」

天音が手を抜こうとすると、篤志はポケットの中で指を絡め直した。

「まだ音がする」

「電車の音だよ」

「じゃあ、次の音が止むまで」

彼は空いた手でスマホを見せた。翌週、天音が行きたいと言っていた室内楽の演奏会。二席が隣り合って予約されている。予定名は《天音と篤志》

「雷、鳴らないよ」

「それでも手は必要かもしれない」

天音はチケットを一枚、自分のスマホへ受け取った。連絡先の《秋庭》《篤志》へ変え、代わりに彼の画面にある《菱田》も《天音》へ直す。

駅の屋根に入っても、二人はポケットから手を出さなかった。

「篤志。もう、本当に音は止んだよ」

「うん」

「それでも離さない?」

篤志は答えず、握る力を少し強くした。天音も同じだけ返す。

音が止むまで借りるはずだった手は、雷が遠くなったあと、弱さを隠さなくても隣にいられる人の手へ変わっていた。