霧の料金所
午前一時五十五分。峠道の霧の中に料金所の灯が浮かんだ。
タクシー運転手の夜久瀬誠は、後部座席の男を空港へ運んでいる。二時までにゲートを抜ければ深夜割増を含む最後の一万円が入る。それで今月の営業ノルマを越え、翌月の乗務停止を免れる。
男は濡れた通行券を差し出す。
「急いで。五分あれば間に合う」
誠はETCレーンへ入った。バーが上がらない。ブレーキを踏んだ瞬間、霧がフロントガラスを白く塗り潰す。
午前一時五十五分。男がまた通行券を差し出した。
二周目は一般レーン。三周目は保守路。四周目は料金所の手前でUターンし、旧道へ回った。どの道も二時になると霧に呑まれ、メーターだけが一時五十五分へ戻る。
「五分あれば間に合う」
六周目、誠は通行券の印字に気づいた。日付は今日ではなく、五年前の同じ日。料金所名の横に、赤い染みがある。
ダッシュボードの隙間から古い新聞の切れ端が出てきた。
《営業タクシー、料金所へ衝突。運転手死亡。乗客は見つからず》
写真の潰れた車体には、今握っているのと同じ四桁の車両番号が映っていた。記事の端には、事故原因を『過重ノルマによる速度超過』とする小さな追記もある。誠が今夜守ろうとしていた数字と、同じ言葉だった。
誠はバックミラーを見る。後部座席の男の顔は霧に溶け、ネクタイだけが揺れている。
「あなたは、誰だ」
「客だよ。運転手は客を目的地へ届けるものだろう」
八周目、誠はバーの上がる方法を見つけた。通行券を自分の胸ポケットへ入れ、アクセルを踏み切る。衝突した瞬間だけゲートの向こうへ出られる。たぶん、空港にも行ける。永遠に客を乗せたまま。
九周目。誠は料金所の手前で車を止めた。
メーターを「空車」に戻し、鍵を抜く。売上もノルマも、運転手という役目も放棄して、霧の路肩へ降りた。
「五分あれば間に合う」
「もう、間に合わせない」
男が初めて黙った。
午前二時。時計は二時一分へ進み、タクシーのヘッドライトが消えた。通行券は誠の手の中で灰になった。
霧の向こうに道はなかった。それでも誠は、客を乗せない足で一歩を踏み出した。後ろでは空の車だけが、いつまでも料金メーターを点滅させていた。