青い手のひら
片桐蒔絵が黒板に描いた桜は、本物より先に満開になった。
白い幹、桃色の花、枝の間に二十九人の名前。卒業式の朝から三時間かけ、最後のホームルームが終わるころに完成した。花びらの一枚一枚には、授業中に回した手紙や、体育祭の鉢巻きと同じ色を忍ばせてある。説明しなければ誰にもわからない細工だった。
「触るなよ」と言われていたのに、津田洋介は写真を撮ろうとして教卓につまずいた。咄嗟についた手が、黒板の青空を横切った。
桜の右半分が、手の形に消えた。
教室が静まり、洋介の顔から血の気が引いた。蒔絵の指先には、何度も色を重ねたせいで小さなひび割れができていた。それを見た洋介は、いつもの冗談を一つも言えなかった。
「ごめん。直す。チョーク貸して」
「無理。色、混ぜてあるから」
蒔絵は短く答えた。青だけでも三色使い、指でぼかしていた。式の最中も袖に粉がついたままで、担任に笑われた作品だった。
洋介は消えた場所を見つめ、自分の掌についた青を見た。
「じゃあ、これ残していい?」
彼は黒板へ同じ手をもう一度押しつけた。今度は消すのではなく、青い手形が桜の横にくっきり残った。
「何してんの」
「犯人の署名」
誰かが笑った。別の誰かが黄色いチョークを掌へ塗り、隣に手形をつけた。赤、緑、白。次々に手が並び、桜の枝から色とりどりの葉が生えた。
蒔絵は止めなかった。
最後に洋介が青いチョークを差し出す。
「作者も」
蒔絵は少し迷い、右手を塗った。黒板の中央、消えた花の上へ押す。青い掌の輪郭に沿って、洋介が白で一輪だけ描き足した。
集合写真では、二十九人全員が粉だらけの手をカメラへ向けた。顔より手の方が目立つ、卒業らしくない一枚になった。
写真を撮ったあと、担任が黒板の前に立ち、「この手で拍手するか」と言った。二十九人が両手を打ち合わせると、色の粉が一斉に舞い、教室の空気まで淡く染まった。
蒔絵はその瞬間も撮りたかったが、カメラを持つ手まで青かったので諦めた。
翌日、蒔絵は写真を印刷し、題名を書いた。
〈失敗してから完成した桜〉
洋介の青い手形だけ、少し大きく滲んでいる。それを見るたび、蒔絵は壊された瞬間ではなく、みんなが黒板へ駆け寄った足音と、色の粉が舞った拍手を思い出す。