香煙の消えた誓約殿

皇室誓約殿には、百本の香が焚かれていた。

巫医ミカは煙を吸うと咳が止まらない。祭司たちは「聖なる苦しみ」と言って、窓を開けることさえ許さなかった。

皇帝グラウゼが入殿した瞬間、ミカは袖で口を覆った。

「消せ」

一声で、衛兵が香炉へ蓋をする。祭司長が抗議した。

「香煙がなければ神は誓いを聞きません」

「余には聞こえた。十分だ」

戦敗国の王を玉座ごと処刑した皇帝が、ミカへは白湯を差し出す。咳のときは蜂蜜を入れないほうが楽だと、一度話したことを覚えていた。

「背をさするか」

「今は触れないでください」

「分かった」

手を下ろす速さに、ミカは息をついた。

誓約の時刻になると、祭司長が彼女へ金の鎖を差し出した。

「皇帝陛下の専属巫医として、首へ掛けなさい。生涯、宮殿を離れぬ証です」

ミカは首を振った。

「掛けません。専属にもなりません」

「陛下のお命を救った者には、側にいる義務がある」

「治療は仕事です。居場所まで差し出した覚えはありません」

祭司たちがざわめく。

グラウゼは鎖を取り上げ、祭壇の上へ置いた。

「誓約は中止だ」

「陛下は彼女を誰より必要としておられるはず!」

「必要だから縛るのか。無能の理屈だ」

皇帝はミカへ尋ねる。

「今後も宮殿で働くか」

「半年ごとの契約なら。町の診療所へ戻る日も持ちたいです」

「記せ」

祭司長が神罰を持ち出すと、グラウゼは香炉を神像の前から撤去させた。

「神が彼女の拒否を罰するなら、余が神を罰する」

新しい契約には、自由退職と町への往来が明記された。

半年契約には、週のうち三日は町の診療所で働くこと、呼び出しを断れることも書き込まれた。祭司長は、皇帝が倒れたときまで拒否を認めるのかと問う。

「緊急なら頼む。命じはしない」

グラウゼは答えた。

ミカは、自分の知識を求められても、自分自身まで差し出す必要はないと初めて公文書で認められた。

「ミカの治療を受けることは、ミカを所有することではない。余を含め、誰も彼女の首へ鎖を掛けるな」