骨だけになった鯖

椎名絃は、魚屋の閉店後、祖母の鯖の味噌煮を一人で食べた。

母は向かいの椅子に座り、伝票を束ねている。調理台の端には、来月から使うはずの店の鍵が置かれていた。祖母が亡くなってから、母は絃を三代目として仕入れ先へ紹介してきた。

絃は昨日、港から二時間離れた町で、小さな写真スタジオの賃貸契約を結んだ。魚の表面や、働く手を撮る小さな仕事から始めるつもりだった。七年勤めた店を出ると、まだ言えていない。父が早く亡くなり、母と祖母が守った店を見捨てるようで、契約書を鞄の底へ押し込んだ。祖母は、絃が売り台の鯵を撮るたび「食べ物は食べる前がいちばんきれい」と笑い、古いカメラを買ってくれた。その祖母の店を、カメラのために離れることがいちばん言いづらかった。

味噌と生姜の香りが、閉めたシャッターの内側に残る。鯖の身は箸を入れるとふっくら割れ、濃い煮汁が舌へ温かくまとわりついた。

祖母のレシピは、皮へ二本だけ浅い切れ目を入れる。一本では味が届かず、三本では身が崩れる。絃は子どものころ、その皮を丸ごと残した。祖母は何も言わず、皿から皮と骨際の身を集めて食べた。

今夜、絃は皮から箸を入れた。

一口ずつ、骨を避けて身を外す。急ぐと細い骨が折れるため、写真のピントを合わせるときより慎重になった。母の紙をめくる音だけが続いた。

半分食べたところで、鞄の中の契約書が角張って脚へ当たった。

絃は残りを母へ譲ろうと思った。自分の皿を差し出せば、話さずに済む。けれど祖母がいつも引き受けた食べ残しを、今度は母へ渡すことになる。

箸を戻し、皮も血合いも、骨の際まで食べた。

皿には一本の背骨と、細い肋骨だけが残った。絃はそれらを中央へ揃え、店の鍵を骨の横へ置く。代わりにスタジオの契約書を出した。

母は書類へ目を落とし、次に皿を見た。

「きれいに食べたね」

絃はうなずいた。

味を嫌って出ていくのではない。全部知ったうえで、別の仕事を選ぶ。そのことだけは、骨のない皿が先に伝えていた。