鯛の骨を外す昼
海坂悠朔は、料理人の技能試験に落ち、包丁を鞄の底へ入れたまま漁村へ来た。
試験では魚を時間内にさばけず、盛りつけも崩れた。
師匠からは「手が急ぎすぎる」と言われた。急がなければ間に合わない試験で、どうすればよかったのか分からなかった。
民宿の夕食は、豪華な舟盛りではなく、小鯵の南蛮漬けと野菜の煮物だった。
悠朔は食べながら切り方ばかり見た。
宿の老女が向かいへ座り、
「料理の人?」
と訊いた。
「今は違います」
「箸で断面を見る人は、だいたいそう」
翌朝、老女は市場へ行くというので、悠朔もついていった。
売れ残りに近い小さな鯛を一尾買い、台所へ戻る。
「昼に焼く」
「僕がさばきます」
久しぶりに包丁を出した。
鱗を取り、腹を開く。
老女は時計を見ず、隣で大根をおろしている。
悠朔は急がないよう意識しすぎ、今度は手が止まった。
「魚が待ってます」
「死んだ魚は急かさないよ。包丁を置いて、背中を見な」
鯛の体を一度撫で、骨の位置を指で確かめた。
刃を入れると、今までより抵抗が少なかった。
三枚にはせず、骨つきのまま塩を振り、炭火で焼くことになった。
「さばき切らないんですか」
「今日食べる形にすれば十分」
炭が赤くなり、皮がぱちぱち弾けた。
脂が落ちると、煙へ魚の甘い匂いが混じる。
焼けた鯛を皿へ移し、二人で箸を入れた。
老女は骨の周りの身をきれいに外した。
悠朔も真似をする。頬の小さな肉、背骨の際、尾に近い薄い部分。
盛りつけの美しさはないが、一箸ごとに違う味がした。
「試験なら時間切れです」
「昼飯なら、まだ茶もある」
老女は番茶を注いだ。
食後、皿には骨だけが残った。
悠朔はその白い形を見て、魚を速く一つの正解へ変えることばかり考えていたと気づいた。
料理は試験でも仕事でもある。けれど誰かと骨を外しながら食べる時間も、同じくらい料理の中にある。
帰る日、老女は小さな鯛の干物を包んでくれた。
「次の試験を受ける?」
「まだ決めてません」
「じゃあ、これは朝飯」
列車の窓から港が遠ざかる。
鞄の包みから、塩と炭の香りがした。
悠朔は包丁を底から取り出し、布で包み直した。急がず使う場所が、また見つかるまで錆びさせないつもりだった。