黒曜鏡の息
祭壇広場には、火が一つも焚かれていなかった。
アカトル・イシュは黒曜石の鏡を胸に抱き、敵の列を見た。翡翠の仮面を付けた小さな人影が、二人の戦士に支えられている。捕らわれていた若王ヨリだという。
こちらが返すのは、敵の大祭司テナカ。生きたまま返せば、包囲軍は三日退く。若王が死んでいれば、交換の意味はない。
敵将は言った。
「王は眠り草を飲ませてある。暴れぬためだ」
「仮面を外せ」
「王顔を衆目へ晒すのは禁忌だ」
便利な禁忌だった。顔色も傷も見せずに済む。
アカトルは鏡を祭壇へ置いた。磨かれた黒曜石は、光を返さず、輪郭だけを深い水のように映す。
「なら息だけを見せてもらう」
敵将の眉が動いた。
アカトルは若王の口元へ鏡を差し出した。夜明け前の空気なら、生きた息は黒い面へ白く曇る。
何も付かなかった。
支えている戦士の指が、少年の脇へ深く食い込んでいる。それでも身体は揺れない。
「眠っている」と敵将が言う。
「死者はもっとよく眠る」
アカトルは鏡をテナカの口元へ移した。大祭司の息が、すぐ白い円を作る。
広場のこちら側で槍が鳴った。敵側では弓が引かれる。若王の遺体を人質に見せ、テナカだけを取り戻すつもりだった。
「交換を続けろ」と敵将が命じた。
「死体一つと生者一人では釣り合わぬ」
「王を侮辱すれば、おまえの一族を祭壇へ並べる」
「その前に祭司の首が一つ増える」
アカトルは黒曜鏡の縁をテナカの喉へ当てた。鏡は刃物ではない。だが砕けば、石片は肉を裂く。
大祭司が初めて口を開いた。
「本物を出せ。私を死者と替える気か」
敵将はテナカを睨んだ。祭司の権威で軍をまとめている男にとって、その言葉は命令に近い。
長い沈黙のあと、神殿階段の陰から別の少年が連れてこられた。足を鎖で擦り、片頬が腫れている。だが自分の足で歩いていた。
アカトルは鏡をその口元へ差し出す。
白い息が黒曜石へ広がった。
「名を」
「ヨリ・七葦」と少年は答えた。「母はアマヤ、父は雨暦の王」
声まで本物だった。
双方の縄が切られる。若王と大祭司が祭壇の左右から歩き、中央ですれ違う。テナカは死体を見ず、ヨリも敵将を見なかった。
少年がこちら側へ入る。アカトルは鏡を下げた。表面には、二つの息跡が残っている。生者二人の交換だったという証だ。
敵兵が死体を運び去る前に、朝日が神殿の頂へ触れた。
アカトルは黒曜鏡を高く掲げる。
「蛇羽の旗を上げろ」
石段の上で、緑の軍旗が一息に開いた。