ここで笑わなくていい
折井杏子は居酒屋の個室で、割り箸をマイク代わりに立った。
「どうも、三人組『留年候補』です。卒業できたので解散します」
犀藤雄輝が机を叩き、木瀬日菜が一人分だけ拍手した。隣の宴会の笑い声が壁越しに聞こえ、まるで客がいるようだった。
三人は大学のお笑いサークルで、杏子が台本を書き、雄輝がボケ、日菜がツッコミを担当した。雄輝は芸人養成所へ行く。日菜はラジオ局の構成作家見習い。杏子は高校教師になる。
「教師しながらネタ書いてよ」と雄輝。
「もう書かない」
「文化祭で使える」
「生徒を素材にしたくない」
日菜が枝豆の殻を揃えた。「私たちのことは素材にしてたじゃん」
「同意があったから」
「なかったけど」
三人は笑い、杏子だけ先に真顔へ戻った。
「笑われるのと、笑わせるのの境目が、最近わからない。先生になるなら、そこだけは間違えたくない」
日菜は昔の観客アンケートを出した。〈意味不明〉〈声が小さい〉の間に、一枚だけ〈笑わなかったけど、好き〉とある。
「宝物だ」と雄輝。
「教師としては赤点」と杏子。
雄輝はビールを飲み干す。「俺は間違え続ける。舞台で滑って、また出る」
日菜は烏龍茶を上げた。「私は顔を出さずに、他人が笑う順番を書く」
杏子もグラスを合わせる。「私は、笑わない子の隣に座る」
最後に、学園祭で一度も受けなかったネタをやった。雄輝が同じところで噛み、日菜が予定より強く頭を叩き、杏子は台本にない声で笑った。隣室の笑い声と重なり、どちらが本物かわからない。
会計後、杏子はアンケートの一枚を定期入れへ滑り込ませ、二人とは反対の夜行バス乗り場へ歩いた。
会計は三等分だった。雄輝が『台本を書いた人は安くていい』と言い、杏子は一円単位まで返した。最後まで役割で扱われたくなかったのだ。日菜は小銭の音を聞きながら、三人組がただの三人へ戻る瞬間を数えていた。
個室には、最後のネタを書いたカードが残った。裏返すと杏子の赤字で、〈ここで笑わなくていい〉と書かれていた。