だし巻きの端

臼井叶実は、店の最後の注文が通ったあと、卵を六個割った。

明日から入院する。小さな居酒屋の厨房を何週間空けるかは決まっていない。店主には病名まで話したが、十九歳の新人には「検査」としか言っていなかった。

「まかない、何がいい」

新人が迷っている間に、叶実はだし巻き用の鍋を火へかけた。いつもなら余った魚で茶漬けを作る時間だ。今日は、使い込んだ銅鍋の癖を一度見せておきたかった。

卵液を流す。手前の角だけ火が強いから、鍋を半歩ずらす。固まる前に箸で気泡をつぶし、奥から手前へ巻く。新人は皿を拭く手を止めて見ていた。

「動画、撮ります?」

「手、動かして覚えて」

二層目は新人に持たせた。鍋を傾ける角度が浅く、卵液が右へ寄る。叶実は柄の端へ指一本を添えただけで、取り上げなかった。巻いた卵は途中で裂けたが、次の液が傷を隠した。

営業中には言えなかった説明を、二つだけした。油を引きすぎないこと。焦げた匂いがしたら、火を弱めるより鍋を外すこと。病院の話よりずっと具体的で、新人は二度うなずいた。

焼き上がっただし巻きを巻きすで整え、六つに切る。端は不揃いで、片方だけ薄かった。叶実はその二切れを自分の皿へ置き、真ん中の四切れを新人へ渡した。

二人は立ったまま食べた。新人は熱さに口を押さえ、叶実は端の焦げた部分を噛んだ。だしは少し濃かった。

食後、新人が銅鍋を洗おうとする。叶実は止め、湯だけで汚れを落とした。布巾で水気を拭き、薄く油を塗る。

新人はまかないの皿を洗ったあと、何も入っていない銅鍋を一度持ってみた。柄の重さで手首が下がる。叶実は背後から角度を直し、鍋の先をほんの少し上げさせた。「卵がなくても練習になる」と言うと、新人は三回、巻く動作を繰り返した。三回目だけ鍋底が水平になった。叶実は褒めず、コンロの火が完全に消えているかを一緒に確かめた。

新人は釘の下に、明日のまかない用の卵を置いた。

定位置の釘へ柄の穴を通すと、鍋は一度揺れ、壁に平らに収まった。