まだ名前のない石
沢渡美岬は、返事を早くする人だった。
誘いにはその場で答え、仕事の依頼は一晩持ち越さない。迷っている時間は相手を待たせるし、考え直せば自分の弱さが増える。だから最初に安全だと思ったほうを選び、あとから違和感が残っても「もう決めたから」と蓋をした。職場では決断が速いと褒められたが、退職も引っ越しも、考え直す余地を自分から消したあとで何度か後悔した。
その日、美岬には二つの採用通知が届いていた。一つは今の経験を生かせる大手企業、もう一つは以前から興味のあった小さな資料館。どちらも翌日までに返事が必要だった。両親は大手を勧め、友人はやりたいほうへ行けと言う。美岬はどちらかへすぐ返信するつもりで、河原のベンチに座った。
足元で、八歳の響が平たい石を集めていた。父親は少し離れた場所で釣り糸を直している。響は石を一つずつ並べ、「船長」「朝ごはん」「火山」と名前をつけていた。
美岬が丸い石を拾い、「これは月かな」と渡すと、響は受け取らなかった。
「まだ決めない石」
「名前をつけないの?」
「明日見ると、ちがうかもしれないから」
響はその石を美岬の手へ戻した。
「今日だけ持ってて。名前つけたら負け」
「いつ決めるの?」
「明日のぼくが決める」
響は別の石を探しに行った。美岬の手には、月でも卵でもない灰色の重さが残った。名前がないままでも、石は落ちずにそこにあった。
帰り道、石は上着のポケットで何度も向きを変えた。母からは『返事した?』、友人からは『決めたら教えて』と通知が来たが、美岬はどちらにもまだ、と返した。返事をしないのではなく、決めていないことをそのまま伝えるのは初めてだった。
帰宅後、二通の採用通知を並べた。大手を「正解」、資料館を「挑戦」と呼んだ瞬間、もう答えが決まってしまう気がした。どちらにもまだ名前をつけず、条件と、自分が訊きたいことだけを書き出した。
締切まで十七時間。いつもの美岬なら十分で返事をしただろう。
彼女は両社の担当者へ、「検討のため、明日の夕方までお時間をいただけますか」と送った。
灰色の石を、まだ何にも見立てず、机の中央へ置いた。