アルパカ花舗の一輪

 栗栖砂羽の部屋には、花瓶がなかった。

 仕事帰りはコンビニへ寄り、休日は洗濯をして終わる。花は誰かへ贈るもの、自分の部屋には長持ちしないものだと思っていた。

 同僚の送別会に持っていく花束を頼むため、「雲絹花舗」へ入った。

 店主はアルパカの雲絹。首に緑のエプロンを巻き、人間の店員へ花の名前を次々伝えている。

「明るくて、重すぎない花束を」

「贈る相手は?」

「異動する同僚です」

「あなたには?」

「いりません」

 雲絹は長い睫毛を一度伏せた。

 花束には黄色いラナンキュラスと白い小花が選ばれた。人間の店員が包む間、雲絹は店先の鉢を一つ鼻で押してきた。

 小さなローズゼラニウムだった。

「これは花束ではありません」

「葉を触って」

 砂羽が指先で葉を撫でると、青く甘い香りが立った。薔薇に似ているが、土の匂いも混じっている。

「よい香りでしょう」

「でも、世話ができないと思います」

「水を忘れたら、葉が少ししょんぼりする。気づいた日にあげればよい」

「枯らしたら嫌です」

「枯らさないことだけ考えると、育てる時間がなくなります」

 砂羽は店内を見回した。切り花の華やかさの下で、鉢植えは葉を少しずつ伸ばしている。誰にも贈られなくても、そこにいるだけで空気を変えていた。

「花は咲きますか」

「小さく。葉ほど目立ちません」

「店主がそれを言うんですね」

「葉も客ですから」

 結局、砂羽は花束と一緒に鉢を買った。

 送別会で同僚は泣き、花束は皆の写真の中央に置かれた。帰宅すると、砂羽の手には地味な緑の鉢だけが残った。

 窓辺へ置き、もう一度葉を撫でる。部屋へやさしい香りが広がり、いつもの洗剤と紙袋の匂いが少し遠のいた。

 一週間後、砂羽は雲絹花舗へ写真を見せに行った。

「まだ元気です」

「あなたも?」

「まあまあ」

「同じくらいで十分」

 雲絹は笑うように口元を動かした。

 店員が余ったローズマリーを一本くれた。砂羽はそれを湯へ浮かべ、夜の窓辺で飲んだ。

 ゼラニウムの葉、ローズマリー、湿った土。部屋には誰かへの贈り物ではない香りが重なった。

 砂羽が「ただいま」と言うと、鉢の葉が暖房の風でかすかに揺れた。返事ではなくても、帰ってきた部屋に動くものがあるだけで、夜は少しやわらかかった。