アレルゲン欄の空白
印刷開始の一分前、私は原材料表示から「落花生」の文字が消えていることに気づいた。
新商品のソースには、香りづけで少量のピーナツペーストを使う。試作段階から表示していたはずだった。
版下を直したのは鳥飼芙香。専務の娘で、ブランド企画室に籍だけ置き、毎週金曜の試食会だけは欠かさない。
「文字が多いと高級感がなくなるの」
「アレルギー表示は削れません」
「うちはデザインで売る会社。小比賀さんみたいな工場脳には分からないよ」
芙香は印刷許可を押した。
私はラインの非常停止をかけた。数万枚の包材が機械の手前で止まり、工場長が飛んできた。印刷機を止めれば納品は半日遅れる。止めなければ、表示を信じた人が口にする。迷う時間はなかった。
芙香はすぐ私を指した。彼女は以前から、賞味期限の文字を細くし、原産国表示を裏面へ追いやっていた。私が修正すると「美意識のない人」と評価表へ書いた。だが今回、版下比較表には私の修正指示と、芙香が削除した時刻がそのまま残っていた。
「この人が納期を潰しました」
その日は大手小売チェーンの最終監査日だった。品質責任者が版下の変更履歴を確認し、表示を削った端末と承認者を特定した。さらに専務が、過去にも娘の修正を無検証で通すよう工場へ圧力をかけていたメールが見つかった。
専務は笑顔を作った。
「若い感性の行き過ぎです。教育しておきます」
小売チェーンの責任者は、契約書を閉じた。
「教育で済む問題ではありません。小比賀澪さんが止めなければ、全店回収と健康被害の恐れがありました」
社長は臨時取締役会の決議を読み上げた。
「鳥飼専務を解任。芙香氏は重大な安全規程違反と虚偽報告により懲戒解雇。品質承認権は小比賀さんへ移す」
芙香は唇を尖らせた。
「私がいなきゃ、パッケージが地味になるよ」
責任者は修正版を手に取った。
「命を守る表示ほど、目立つべきものはありません」
ラインが再び動き始め、芙香の社員証だけが入場ゲートで止まった。