ココアは小さじ八分の一
藍里は別れた彼のレシピを、捨てられずにいた。大学ノートから破った紙に、材料と手順だけが並んでいる。題名も署名もない。二人の家では、それを「うちのカレー」と呼んでいた。
別れたあと初めて、一人で同じカレーを作った。紙の通りに玉ねぎを炒め、挽き肉を入れ、クミンを二振りする。香ばしい匂いが立つたび、彼の手元が浮かんだ。藍里は料理を始めたころから、分量も火加減も彼に教わっていた。
友人は、レシピくらい使えばいいと言った。けれど藍里が言えない悩みは、カレー一皿より大きかった。別れて残ったもののうち、どこまでが自分なのかわからない。好きになった音楽も、選ぶワインも、包丁の持ち方も、彼から覚えた。自分の生活が借り物に見えた。
出来上がったカレーを白い器へよそう。よく煮えた玉ねぎは舌でほとんど形を失った。味は、驚くほど同じだった。
藍里は半分まで食べ、レシピをもう一度見た。最後の行に「塩、足りなければ少々」とある。彼はいつも味見をして、一つまみだけ足した。藍里はその判断まで真似していた。
スプーンを置き、鍋から少量をすくう。塩は足さず、冷蔵庫の奥にあった無糖のココアをほんの少し落とした。以前から試したかったが、彼は苦くなると言って嫌がったものだ。
混ぜて食べる。最初は違いがわからない。二口目で、後味にわずかな深さが残った。おいしいかどうか、すぐには決められなかった。けれど、同じではなかった。
藍里は皿に残った最後のひと口を、十分ほど置いた。冷めると苦みが少し強い。次は半量でいい。そう思えたことがうれしかった。
最後まで食べてから、紙の余白に書き足す。
「ココアは小さじ八分の一。冷めると苦い」
レシピの紙には彼の癖が残っていたが、余白はまだ広かった。次に直す場所を考えるだけで、台所が少し自分のものに見えた。
その下に、初めて日付と藍里の名前を書いた。借りた味は、食べて直せば、自分の続きになった。