サイン会の二膳

人気作家を待つ列が一階を一周するころ、百瀬藍の昼食だけが先に控室へ招かれていた。もちろん、本人は知らない。

昼休みに入る直前、藍は弁当が消えたことに気づいた。

今日は人気作家・立花のサイン会。休憩室へ出入りしたのは、イベント担当の黒川、アルバイトの柊木、そして控室へ向かう途中の立花本人だけだった。

開店前から列ができ、藍は水を飲む暇もなく案内を続けていた。昼を抜くつもりはなかったが、忙しくなるほど「あと五分」を繰り返す癖がある。その癖を黒川はよく知っている。

黒川は会場設営、柊木は在庫補充で走り回っている。立花は人前が苦手で、控室から一歩も出ていないという。

藍は店内を見回した。スタッフ用の案内図では、休憩室から控室へ向かう矢印が赤ペンで引き直されている。給湯室から湯のみが二つ消え、机には立花の新刊に挟むはずの署名入り栞が一枚だけ残っていた。裏には「お昼を借ります」と書かれている。

控室を開けると、弁当は丸机の上にあった。向かいには立花が座り、未開封のサンドイッチを両手で持っている。

「黒川さんに頼みました」

立花は申し訳なさそうに言った。

「百瀬さんを、弁当ごと連れてきてほしいと」

一年前、休筆中だった立花の旧作を、藍は小さな手書きポップで紹介し続けた。〈続きを待つのではなく、この一冊を何度でも読みたい〉。売れ残った一冊を棚から下げず、季節ごとに紹介文を書き替えた。その言葉が編集者を通じて本人に届き、執筆を再開する支えになったらしい。

「お礼を言おうとすると、サイン会より緊張してしまって」

「だから私の昼食を誘拐したんですか」

「人だけ呼ぶと、仕事を理由に断ると聞きました」

黒川の差し金でもあった。藍は実際、忙しい日は昼を抜く。

立花はサンドイッチを一つ差し出した。

「交換しませんか。返却ではなく」

藍は弁当から卵焼きを取り、空いた包み紙へ置いた。

「では、二十分だけです。先生の次の列ができる前に」

「次の本も、置いてもらえますか」

「読んでから決めます」

立花が笑った。控室の外では、次の案内放送が始まっている。それでも黒川は扉を開けず、二十分を守ってくれた。藍もサンドイッチを一口かじる。

署名入りの栞には、あとで小さく書き足された。

――昼休みを返します。