センター契約を破る
桃色のリボンが、卒業契約書に結ばれていた。
「センターはあなたに譲る。これは、そのための契約」
人気アイドルグループのリーダー、久世真帆は、前の人生と同じ優しい顔で言った。
末席のメンバーだった星川澪は、夢に手が届いたと思って署名した。だが契約はソロデビューではなく、グループ卒業と権利放棄の同意書だった。さらに、真帆の裏アカウントで行われていた誹謗中傷を、澪が一人で書いたと認める条項まで入っていた。
会見で謝罪文を読まされ、世間から消えろと叫ばれた夜、澪は楽屋の椅子へ戻った。
鏡前の電球。桃色のリボン。壁の時計は、生配信開始三分前。
真帆が契約書を押し出す。
「みんなも、澪ならセンターを任せられるって」
ソファのメンバーたちは目を伏せている。前回は照れているのだと思った。今なら、罪悪感でこちらを見られないのだと分かる。
澪はリボンをほどき、全頁を広げた。
「署名しません」
真帆の声が一段低くなる。
「今さら怖くなった? この機会を逃したら、一生後列よ」
「後列でも、他人の罪を被るよりいい」
澪は第八条を指す。《契約者は過去に運用した全匿名アカウントの責任を認める》。
「私、匿名アカウントを持っていません」
「事務所が用意した定型文よ。細かいことを言わないで」
「では、なぜ謝罪投稿がもう予約されているんですか?」
壁の大型モニターには、生配信用の管理画面が開いていた。前の人生、会見後に一瞬だけ見えた投稿時刻を覚えている。澪はリモコンで予約一覧を表示した。
《星川澪より皆様へ――私が中傷アカウントを運用しました》
投稿予定時刻は、契約締結より前。
作成者欄には《久世真帆》。
他のメンバーが息を呑む。
真帆はモニターの電源を切ろうとした。だが生配信はすでに待機映像を流しており、管理画面もそのまま視聴者へ映っていた。
コメント欄が爆発する。
《契約前に謝罪文?》
《作成者、真帆って出てる》
《澪は罠にはめられてる?》
真帆が桃色のリボンを握り潰した。
「違う、これは演出の準備で――」
事務所代表が楽屋へ飛び込む。
「配信を止めろ! いや、証拠保全が先だ。久世、端末から離れろ」
前の人生では配信開始と同時に、澪の公式プロフィールからグループ名が消えた。
時計が零を示す。
画面が更新される。
《契約未成立のため、星川澪の在籍権および公式アカウントは維持されます》
そしてセンター欄から消えたのは、真帆の名前だった。