バトンは手の外へ
都築沙英は、取り壊し前の母校で、陸上部の倉庫整理を手伝っていた。埃をかぶった箱の底に、赤いリレーバトンが一本あった。校庭では現役部員が新しいトラックの白線を引いており、窓から石灰の匂いが入ってきた。油性ペンで書いた四人の名字は、汗で半分消えている。
高校最後の大会、沙英たちのチームは第二走者と第三走者の間でバトンを落とした。拾って走り切ったが、記録は残らなかった。
引退の日、顧問はそのバトンを持ってグラウンドへ来た。三年生四人と、一年生四人をトラックに並べる。正式な競技ではない。タイムも順位もつけない。ただ、百メートルずつ走り、三年生から一年生へ渡して終えると言った。
沙英は最後の走者だった。
百メートルを走りながら、落とした日の映像ばかり浮かんだ。手を伸ばすのが遅かったこと。振り返ってしまったこと。謝る声が風で聞こえなかったこと。
ホームストレートの先で、一年生が右手を後ろへ差し出していた。まだ細い腕が上下に揺れている。
「はい!」
沙英は声を出し、赤い筒を押し込んだ。指が離れた瞬間、身体だけが前へ走り続けそうになった。足を止めると、一年生は振り返らず、そのまま第一コーナーへ消えていった。
ゴールテープはなかった。拍手もなかった。三年生たちは息を切らしながら、空になった自分の手を見ていた。
沙英は、最後まで持っていることが責任だと思っていた。落とさないよう握ること、誰にも迷惑をかけないこと。その日初めて、手放すところまでが走りなのだと身体で知った。
現在、沙英は六年間勤めた会社を辞め、送別の花束をまだ玄関に置いたまま、後任への引き継ぎを終えたばかりだ。机も顧客も、自分がいなければ止まると思っていたが、翌週の予定表にはもう別の名前が入っている。
倉庫へ来た現役部員に、赤いバトンを差し出す。展示用に残します、と受け取った手は迷いがなかった。
校門を出るとき、沙英はポケットの中で指を開いた。
何も持っていない手は、次のものを受け取れる形をしていた。