パスポートの余白
白峰琴葉に届いた内定通知は、日本語と英語で一通ずつ添付されていた。
勤務地は台北。契約は二年。現地の食品会社で、日本向け商品の広報を担当する。琴葉が応募したのは、深夜の勢いだった。まさか本当に採用されると思わず、最終面接まで進むたびに、未来が冗談ではなくなっていった。
返答期限の日、琴葉は古いパスポートと更新したばかりのパスポートを並べた。古いほうには、友人と行った短い旅行のスタンプが三つ。新しいほうは真っ白だった。
今の会社に残れば、来期から広報チームの副担当になる予定だ。慣れた街、慣れた言葉、失敗しても助けを呼べる人たち。台北へ行けば、二年後の保証はない。帰国して再び転職活動をする頃には三十一歳だ。
年齢を逆算する癖がついていた。三十までに正社員、三十二までに役職、そこから先は遅れ。誰が作ったか分からない時刻表に、自分だけ乗り遅れている気がする。
現地人事から二件のメッセージが届いた。
〈承諾の場合、住居探しをサポートします〉
続いて、今の上司から〈来期の体制、あなたを入れて考えている〉と来た。
どちらも琴葉を必要としているように見えた。必要とされる場所ではなく、失敗したとき自分で選んだと言える場所を考えた。
ノートには、現地の家賃、健康保険、語学学校の費用が並んだ。旅行なら見なくてよかった金額ばかりだ。中国語は挨拶しかできず、英語の契約書も辞書を引きながら読んだ。憧れを現実へ近づけるほど、行きたい気持ちはむしろ小さく、硬くなった。
琴葉は英語の承諾書に署名し、日本語版と一緒に返信した。送信した途端、航空券、退職、住居、税金という現実が一斉に押し寄せた。冒険という言葉では片づけられない面倒ばかりだった。
翌朝、古いパスポートを引き出しへしまい、新しいほうに緊急連絡先を記入した。余白はまだ白い。
琴葉はそこへ未来が勝手に刻まれるとは思わなかった。二年後に戻ることも、途中で泣くことも含め、最初の一頁を自分で汚しに行くのだと決めて、証明写真の自分と目を合わせた。