ピアノは調律されていない

本郷颯が中央のドを押すと、音は少し低く、隣の弦まで震わせた。

「十年前よりひどい」と八代真帆が言う。

同窓会のあと、二人は宮島圭一に連れられて旧音楽室へ来た。高校時代、三人は合唱コンクールの伴奏を交代で担当し、放課後になると一台のピアノを奪い合った。

圭一は今、学校専門の調律師だった。だがこのピアノは来月廃棄されるため、修理の予算が下りなかった。

「最後に一曲」と颯が椅子へ座る。

「弾けるの?」と真帆。

颯は広告会社で作曲している。十五秒の映像に合わせ、耳に残って翌日には忘れられる音を毎週作る。春から会社を辞め、葬儀社の音響担当になるという。

「忘れられない曲を作るの?」

「違う。忘れられない時間に、邪魔をしない音を選ぶ」

真帆は銀行員を続けながら、来年度から夜間の音楽大学へ通う。高校三年で受験を諦めた声楽科だった。

「今さら歌手にはならないよ。ただ、今さらって言わない場所に行きたい」

二人が圭一を見る。彼はこの町に残り、廃校から集めた楽器を修理する工房を開く予定だった。新しいピアノを売るより、捨てられる一台を延命したいという。

「三人で演奏会、できるな」と颯。

「葬儀と夜学と修理の合間に?」と真帆。

圭一が笑った。「日程調整だけで一生かかる」

颯は、昔三人で弾いた連弾曲の前奏を始めた。真帆が高音側へ座り、圭一は立ったまま低音を一本指で補った。狂った音程のせいで、和音はところどころ濁った。それでも三人は止めず、最後の小節まで進んだ。

終止音だけ、中央のドが戻らなかった。鍵盤が沈んだまま上がらず、部屋に不完全な余韻が残る。

圭一は工具を出しかけ、しまった。

「直さないの?」と真帆。

「これはもう、次に弾く人がいない」

三人はピアノの蓋を閉じ、別々の出口へ向かった。颯は夜行列車、真帆は自宅、圭一は工房予定地へ。

暗い音楽室では、蓋の下で一つの鍵盤だけが沈み続けていた。誰も押していないのに、そこだけがまだ演奏の途中だった。